xtetsuji) です。
おがた (@ついつい新生活で慌ただしい日々を送っていたら11月下旬になってしまいましたが、2015年8月末から9月にかけて引越しをして、2015年10月から品川区に住み始めました。
既に入社エントリを公開していますが、まだ東京です。
新居概要
新居は東京都品川区です。
2015年10月に入社した会社の所在地は品川区西五反田なのですが、引越し補助と家賃補助をアテにして超至近に引越したわけです。
2015年の上半期は東京に嫌気がさしていましたが、その要素は
- 暑さ
- 電車
- 人混み
でした。
しかもそれの大半は会社と自宅の移動、つまり通勤時の苦行でもありました。
ありがたいことに新しい会社に声をかけていただき、2ヶ月間お試しで働かせていただいて今後もぜひお力添えをしたいと言った後で考えたのは、この3つの苦行を出来る限りなくすことでした。
そう、通勤時の苦行なのだから通勤がほとんど発生しなければいいだけのこと。とはいえ、五反田という山手線沿線に住むのは相当コストかかるぞと考えた時に、会社側から家賃補助があることを教えていただきます。
社会人になってから十数年、東京都中野区で木造ボロアパートに月6万円以上払っているけれど、家賃補助を足せば月6万円で駅チカ会社チカで鉄筋コンクリート物件に住めるぞと。これは引越しをしない理由はないぞと。
社会人になってから仕事に忙殺され尽くして人間らしい生活ができていなかった時期に溜まった闇も、引越しで解消するチャンスでもありました。
東京在住の歴史は中野区在住の歴史
なんか想い出すと落ち込むくらい昔、高校卒業と大学進学を機に東京に上京しました。
数学を志していた北海道大好きな私は、北海道内で唯一数学科を有していた大学へ入ろうとしたのですが、英語が全く出来ないし、その大学の大昔の先生も英語の言葉をいっぱい残しているしで、ざっくり説明すると英語が出来なくて北海道を追放されたのち東京に落ち延びました。
東京では山手線の駅に近い都心の大学に入ることが出来たのですが、さすがに貧乏学生が山手線沿線に住むのは厳しいです。入学の一ヶ月前の3月に一度上京して母と一緒に住まい探しをしたのですが、大学の物件紹介欄でたまたま見つけた木造住宅の2階の貸間に住むことになりました。中野区の住宅地のど真ん中(駅で言うと鷺ノ宮駅の当たり)でしたが、家賃は破格の26000円。ボロアパートであることを我慢して、下階の大家さんの呪詛のような騒音禁止の要請を我慢すれば、金銭的には本当に助けられました。
とはいえ大学院を卒業する6年後に、大家さんがいよいよ貸間を辞めたいという圧力が爆発して、1月の修士論文を書いている最中にあらゆる引越し作業をするという地獄のような体験をすることになります。
もともと大学の物件紹介欄にあったこの物件は学生契約だったのでした。とはいえ、当初4年で卒業した時に出て行ってもらいたいと思っていたらしい大家さんに、私が大学院に進学するという話をしてさらに2年我慢を重ねることになり、後期課程には進まないから卒業しますと私が言った途端に爆発といった様相でした。
入居検討時から共用部分にキョンシーハウスの御札みたいに禁止事項が貼られまくっていたのは最初から相当不気味(正直毎日ドン引きしていました)でした。そもそも大家さんは根底にヒステリックな感情を抱えている方だったようで、6年間たびたび苦労しました。表向きは優しい人だったのですが…。
引越しの直前にその異常とも言えるまでの騒音禁止要請の理由を聞きましたが、それをわざわざ私に言うことかと、同情半分ではありつつも、かなり呆れました。
適当な家へ
追い出されるも同然で家探しをしていましたが、特に住みたいところもないし就職先も決まっていないしで、池袋の雑居ビルの中にある不動産屋で適当に決めてしまいました。
判断基準として
- 中野区(他の区の制度を覚えるのが面倒)
- 安価。さすがに30000円以下は無理としても60000円以下
- 電車はどうでもよくてバスの利便性の高いところ
いくつか紹介してもらったのですが、中野区江原町の木造アパートに引越すことにしました。60000円を若干上回る家賃でしたが、バスの利便性も良く、居住環境としてはギリギリ住める(自分基準)ボロさだったこともあります(これ以上ボロくて精神的に無理という案件が結構あった)。まだ大江戸線開業からそれほど日が経っていなかったこともあり、大江戸線沿線といえどもそれほど家賃が高くなかったということもあるようです。当時、西武線沿線はボロいのに高いという感じでした。
あと、近所に音大があるということで安価にクラシック音楽が聴けるんじゃないかという願望もあったりしましたが、結局音大との接点はほぼ持てなかったです。
鷺ノ宮の家からの引越し作業は修士論文を書きながらという残酷なものでしたが(本当に半ば追い出される形だった)、なんとかおびただしい量の雑誌を捨てて荷造りをして引越し業者に運んでもらい、引越しを完了させます。それでも業者がくるまでに荷造りしそこねたものを2往復ほど徒歩1時間ほどで運んだりしました。
2月中に引越し完了、3月に大学院卒業、そして少し遅れた5月に1社目にアルバイトで入社をすることになるのですが、そこからが熾烈な社会人生活の始まりとなり、1社目にいた約10年間の中でも特定の数年間は休日も無く会社でも自宅でも仕事をするという、私生活がまるでない時期もありました。
引越しをしたいと思ったことは何度かあったものの、引越し先に希望があるわけでもなく、元手となるお金が出てくるわけでもなく、そんな感じで中野区江原町に12年6ヶ月住み続けることになります。
もともと部屋の片付けが苦手な私ではありましたが、居住生活の後半はほぼ片付けもできず(というか完全に無気力になっていた)、そのしわ寄せが今回の引越しの闇を作ることになりました。今までの2つの家での中野区生活を振り返って思うことは、もう物理的なモノを極力持たない生活をするしかないという一点です。通常の断捨離的な発想と違うのは、そのアナログの物体がデジタルに移行できるのであれば、積極的にデジタル機器やデジタル環境には投資をするという点でしょうか。
今回の、中野区から品川区への壮絶な引越し作業のお話や、12年6ヶ月の間にあったことなどは、長くなりそうなのでまた違う記事で書くことにします。
今後の予定
会社の近くに引越して分かったことは、職住近接は最高だということです。満員電車に乗らず、徒歩だけで会社に行けることがこれほど心の安定をもたらすものとは、もっと早くに気づくべきでした。職住近接についてはまた別の記事で感想を書こうと思っています。
そして鉄筋コンクリート住宅がこれほどまでに快適だったとは。中野区江原町の木造ボロアパートでは、深夜にバカ騒ぎをするDQNが何度も引越して来たりして発狂しそうになること数えきれませんでしたが、都心のここは本当に静寂のひとことです。住宅街だからこそ、隣室にもDQNが集まり、外もウルサイ(爆竹を鳴らすDQNが定期的に近所の夜の公園にいました)ということなんでしょうか。
仕事もちょうどよい量で、ひとまずは仕事も含めて新生活に徐々に慣れていく生活をしていきます。
東京を出ると何度も言っていましたが、2020年までには本気で東京以外の場所を拠点にしたいなと思っているので、それまでに色々な可能性を探っていこうと思っています。とはいえ、少なくとも1年くらいはこの場所で腰を落ち着けて色々勉強しようかなという意気込みです。