「今さら聞けない」ことなんてない

「今さら聞けない」ことなんてない#interest_aeネットの記事のみならず、旧来のメディアでもしばしば見る「今さら聞けない」というフレーズ。正直、このフレーズがどうも好きになれません。そもそもこのフレーズにポジティブな意味が感じられません。

どうして一部の人はこのフレーズを使うのか、このフレーズを見聞きしてネガティブな気分になる私のような人達はどのようか心持ちでいれば良いのでしょうか。

「今さら聞けない」が使われる理由は何?

その記事で取り扱っている知識が登場もしくは普及してから比較的時間が経過している場合、既に知る機会や文献が多々あったはずなのに…という含みを持たせたい場合などに使われるのが「今さら聞けない」のようです。時間が経過は知識のジャンルによっても感じ方が変わってくるわけで、知識のやり取りも旧来のメディアより早く、数年前の知識が時代遅れとされがちなIT業界の技術要素で使われることが多い印象があります。

この「今さら聞けない」を使う書き手は一体何を考えてこのフレーズを使っているのでしょうか。この記事では緻密な考察はしませんが、たぶんそこで取り扱っている知識に関して自分より能力の高い人と低い人への見せ方があるのではと想像しています。

書き手より能力の高い人に対しては、文字通りこんなことを書いている自分自身(書き手)が「今さら…」と言われる前に予防線を張っているのでしょうか。書き手によって様々な理由があるとは思いますが、書き手が厳しい先達に囲まれている場合は無意識的にこのような行動を取ってしまうことも想像に難くありません。

それとは別に、その記事の対象者となるだろう書き手より能力の低い人に対してはどうでしょうか。上述のように書き手より能力の高い人への想定のみの場合もあるでしょうが、意識して書き手より能力の低い人へ「今さら聞けない」を繰り出すのは、単純に「こんな事も知らないのか」と暗に蔑む意図がある場合、さらに悪質なものとしてある種の不安商法のような効果を望んでいる場合もあるでしょう。

「今さら聞けない」が気分の良いフレーズではない理由

この「今さら聞けない」が私のような人にとって気分の良いフレーズでないのはどうしてでしょう。

この理由を時々考えていたのですが、書き手は純粋に謙遜と卑下の精神で上述の「書き手より能力の高い人」を想定して書いていたとしても、私のような読み手は上述の「書き手より能力の低い人(すなわち読み手である私)」への悪意を感じてしまうからではないかというのが最近私が考えている仮説です。

もちろん、不安商法のような悪意を持った煽動は論外ですが、書き手の純粋な謙遜や卑下から出てくると考えると、巷に「今さら聞けない」が溢れる理由もわかります。日本人は謙遜や卑下が得意です。知識や技術が相対的に高ければ言葉が汚くても構わないと考える一部の「能力の高い人」は今も少数ながら存在して(ここ数年間で幸いにも減っている気はしますが)、そういう輩に萎縮してしまうのも仕方がないことでしょう。

悪意を伴う場合の対処法

謙遜や卑下からの発露ならまだしも、悪意をもった「今さら聞けない」は手強いです。ただ、そういう場合は書き手の人間性が悪いという身も蓋もない結論になってしまうので、関わらない、見ないようにする、遠ざかる、NGユーザとしてミュートするといった一般的な対処法となるでしょう。情報が溢れかえる時代、嫌なものを無理して見る時間も理由もないのです。

その内容が古臭いというネガティブキャンペーンを伴っている・結果的にそう読めてしまう場合は知識を持たない善良な人々を煽動する結果となってしまいます。C言語を何が何でも勉強したい人は「今さら聞けないC言語」という記事に食らいつくでしょうが、この記事の存在自体がC言語に特段の興味がない人に「C言語は今さらなんだ」というネガティブな印象を与えることになりかねません。ことドッグイヤー(dog year)かつネット上でオープンかつ迅速な情報交換が行われるIT技術ではこういう状況が起こりやすいように思えます。

これの極端な表現例が「***は死んだ(*** is dead)」でしょうか。こちらの攻撃性たるや「今さら聞けない」の比ではありませんが、すべての技術は何らかの理由と目的をもって生まれてきたものであり、それが参考にした先発技術と、それを参考にした後発技術という歴史が連綿と続いています。温故知新の考えも無しに、直接的・間接的問わず以前お世話になった技術に古いだの死んだだの臆面もなく言える人を私は快くは思いません。

私達はどういう心持ちでいると良いか

上記の仮説が正しいと思うかの判断は皆さんにお任せしますが、その仮説に従って考えると書き手への同情と共に受け流すこともしやすいのではないかと考えます。

「今さら聞けない」が心地よく聞こえないのであれば、私達が書き手に回った時に「今さら聞けない」といった言葉は反面教師として使わないことです。上記で日本人は謙遜や卑下が得意と書きましたが、謙遜や卑下もやりすぎると容易に自慢や傲慢になってしまいます卑下も自慢の中なのです。

あと世間に溢れる「今さら」の尺度は相対的かつ適当なものであることを観察すれば、「今さら聞けない」を笑い飛ばせるかもしれません。数年前に流行したウェブアプリケーションフレームワークを「今さら聞けない」としながら、かたや最近のウェブ業界でも数学が求められるから行列や三角関数を勉強だと言っているのが同じタイムラインに流れてくると、「行列は17世紀や18世紀の話では!?」と思えて少し面白く感じることでしょう。

義務教育や高等学校で学ぶ科目は人類の叡智であり、それを学ぶのに遅すぎることはないのです。IT技術も元をたどれば初期の計算機科学から大学や高等学校で学ぶ数学へ至る、歴史の年表をたどる旅となるでしょう。

「今さら聞けない」を受け流せるようになった私達は、これからその知識のジャンルを学ぶ初学者へ「それを学ぶのに遅すぎることはない」という薫陶を与え、温故知新の理念の元に先人に敬意を払いながら、初学者への学びを様々な方法で支援することではないでしょうか。

私自身もそういった初学者への学びの支援ができる人になりたいというのと同時に、初学者への学びの支援ができる人を盛り上げていきたいです。

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