株式会社fonfunを退職しました

株式会社fonfunを退職しました#interest_aeおがた (@xtetsuji) です。

このたび2014年1月31日をもって、大学院卒業後の2003年5月25日に入社した「ネットビレッジ株式会社」時代から約10年間勤めた「株式会社fonfun」を退職することになりました。

これを書いている2014年1月現在ではまだ在籍はしていますが、最終出社日は2014年1月17日だったので、事実上退職をした状態になっています。

今まで「期日が決まったアルバイトを自動的に辞めた」ということはあったのですが、正社員として勤めた会社で正式な退職手続きをしたのは人生始めてとなりました。この移り変わりの激しいオープン系IT業界で約10年勤続という話をすると、多くの人に長いと驚かれることが多いくらい長かったです。

いわゆるこのような「退職エントリ」は、おもにオープンに活動するITエンジニアの同報通信的意味合いでしかありません。何らかの材料を探している人(株主など)は下記の私の長々とした思い出を読んでも得られるものは無いと思います。この点については、以前のブログエントリ「私が考える転職エントリのありかた」をご一読ください。

はじめに

書く前から想定していましたが、10年の思い入れのある歴史を振り返ったりしているので非常に長文な記事です。それだけに、私を応援してくださっている方にはぜひ読んでもらいたい記事ではありますが、忙しい方に向けて箇条書きで要約を書いておきます。

  • 大学院卒業後、2003年5月25日に入社した株式会社fonfunを退職することになった
  • 今のfonfunには期待しているし、今後も求められれば外部の人として応援していければよいと思っている
  • 10年の間に2回社長が変わったりして、3つの特色ある時代を過ごしてきて、正直弁護しきれない酷い時代もあったけど、今の時代は平和
  • 10年間のうち最初の7年間で先輩や後輩から色々学び、後の3年間はコミュニティとの両輪で成長していった
  • 色々な事があったけど、結果的に最後の数年の孤軍奮闘時代に会社に合わない施策を打ち出し続けた私の戦略ミスが大きかったと感じている
  • 当然ながら、退職を決断するまで非常に多くの要因があったが、総合的に退職を決断するに至った

誤解を招きたくなかったりするのでいくつか。

  • 長文の中には私の文章力不足等で誤解を招く部分があるかもしれませんが、私は今も昔もfonfun(と昔のネットビレッジ)という会社が好きだという根底が脈々と流れています。仕事仲間としてもプログラマーの仲間としてもとても大切な一人の後輩を残し、自社株をまだ持っている身として、今後とも外野から応援することは退職交渉時にも宣言しています。
  • 時々ある「退職エントリ」推奨派が言う「業界を良くするために前職の悪い点はどんどん糾弾しろ」といった内容は含まれていません。ただ、なるべく中立的な視点で良い点・悪い点を並べて書いている部分はあります。これは愚痴や文句ではなく、改善すれば会社も業界も良くなるだろうと考える私の主観的考えです
  • 私のことを応援してくれる方にはぜひ読んでもらいたいのです。ただ、こういうことは出来れば書きたくはないものの、私のことを嫌っていたり良く思わない一部の方は出来れば読まないでいただきたいと思います。ポジティブとネガティブは表裏一体です。私の事を良く思わない人は、私のポジティブワードを全てネガティブに読み替えてしまい、きっと嫌な気分になるだけです。

謝辞

最初に謝辞を書くのはどうかと思ったのですが、長文なので最初に書いておきます。

  • 2003年入社当時、大学院時代に習得したサーバ管理の知識で食っていけるかなといった甘い考えで入社した私に対して、厳しくも要所要所で的確に育てていただいた大御所のITエンジニアの先輩方には本当に感謝しています。「日本○○協会」の理事クラスの人とか当時ゴロゴロいて、「ここでミスしたら即刻業界から消される!」と日々戦々恐々としていました。
  • 入社して1年ちょっと経過した2004年ごろから会社の柱プロジェクト以外にも多角的にコンテンツ事業をしていこうということになり、そこでペアを組んだ若い企画職の後輩の皆さんや同僚がいたからこそ、Perlを使ってウェブプログラミングをするプログラマーとして自立することができました。私が力不足で一人でプロジェクトを任せられるレベルにないと部署内で先輩方から言われていた時に、無理を言って私を使ってくださった最初の企画職の方々には本当に感謝してもしきれません。
  • 2005年頃からECサイトを大々的に開発していくことになった際に入社した、多くの後輩プログラマーの方々は、本当に私を立ててくれました。最終的には私の待遇の低さをめぐって会社側と交渉までしてくれて、当時まだ力不足だった私にとって本当にありがたかったことは言うまでもありません。今でも本当に感謝しています。

上記で謝辞を述べた方々は全て退職していってしまいました。大切な人が去るたびに、自分も去るべきか何度も悩んだ事は事実です。

また、当時の「ネットビレッジ株式会社」へ行けとアドバイス下さった大学院時代の(他学科ではありましたが)先輩のMさん、ありがとうございます。

また、2013年1月現在fonfunに在職している方について、色々とご迷惑をおかけしましたし、また現在進行形でお世話にもなりました。本当にありがとうございます。

入社のきっかけ

思い出振り返りになりますが、入社のきっかけを書いておきます。10年前とはこの業界では悠久の時ですね。

2003年3月、大学院の卒業式がありました。そこで誰かに「次はどうするの?」と聞かれて、「あ!就職活動とかしていない!」と気づいたのでした。バカですね。

2003年3月現在、アルバイトとして働いていた付属の女子大のシステム構築が長引いていて4月上旬までそちらにかかりっきりになっていました。4月中旬にそれも落ち着いて、アルバイトとしての契約が終了ということで、改めて先輩と相談をしようと 、古巣の大学院生室に行ったところ、普段からよく訪ねてきてくれていた他学科の大学院生の方がいらっしゃいました。状況を相談したところ「ネットビレッジに行け!」と言われて、それに従って面接に行ったのです。何でですかと聞いたら「○○がいるからに決まってるだろ!」と一喝されてしまいました。本来であれば長い無職期間を作りたくなかったのですが、4月下旬に自転車で転倒事故を起こして顔面がひどいことになってしまい証明写真が取れず、2003年5月25日の入社となりました。当時の業界はまだ未成熟で、ネットビレッジに限らず、多くの会社は試用期間としてアルバイト(準社員)採用を普通にしていました。私は大学院を卒業したにも関わらず、卒業後アルバイトをすることになったのです。今では考えられないと良く言われることです。

面接では、入社後上司になり、今(2014年1月現在)ではJPAの理事となった方が面接官でした。「Emacsは使いますか?」という問いに、「はい、navi2chで2chをみようと思って使い始めました」とバカ丸出しの回答をして「コイツ絶対落とす!」と思われていた事を相当年月が経った後で聞きました。どうやら前述の相談に乗ってくれた先輩がDebian関連のIRCチャンネルで「採用しておくときっと役に立つ」と口添えしてくれたから救われたらしいです。本当にありがたいことです。

入社日は社内が大騒ぎだったことを覚えています。そう、2003年5月25日は初めての505iのi-mode端末が発売する日だったのです。今でいうガラケーが全盛だった時代、ドコモの新ラインナップ発売という出来事はケータイ業界が大騒ぎする出来事でありました。i-modeがこの10年で事実上姿を消して、Android/iOSという二強にすっかり置き換わるとは、この時は全く想像できない出来事でしたね。

在職中の思い出 〜在職約10年間と特にここ3年間を振り返る〜

入社のきっかけは上記の通りです。なんと怠惰な大学院生だったことでしょうか。これによって、「最後の紙の就職活動」「空前の就職氷河期」と言われた時代、ほぼ就職活動をせずに2回スーツを着ただけで結果的にアルバイトを経て正社員になることができました。感謝。

他人の「退職エントリ」は好きで結構読むのですが、こうやって私自身が退職エントリを書くことになるとは、約10年同じ会社で頑張って働いてきて、なんだか不思議な気分です。

よくある、入社3年前後で次の会社に行くような「準ジョブホッパー系」の人は「嫌なことは無かったし辞めたいと思ったこともなかった。ステップアップしたかった。」といった事を書いていますが、私は何度も辞めたいと思ったことがあります。辞めたかったというか逃げたかった、のほうが正しいかもしれない。綺麗事なんて言うつもりはないです。だいたい3年に一度は逃げたくなりました

とはいえ、ここ数年は全く落ち着いてしまって、逃げたいという感情を抱いたことは無くなったことは、会社全体が良くも悪くも落ち着いた証拠なのだと思います。2代目社長とその取り巻きが一掃され、3代目社長体制の努力の賜物でしょう。

逃げたかった話を3年ごとに分けて書いてみたいとおもいます。

まず2003年に入社してすぐ逃げたいと思いました。柱コンテンツの第4世代へのバージョンアップがうまくいかず、入社してから1年くらいはずっとバグとクレームとの戦いでした。傍観するしかなかった私も微力ながら協力しようと頑張りましたが、先輩方が発する凄まじい不機嫌オーラに押し潰されそうになることは何度もありました。時には協力会社がアホなことを言い出して、先輩がゴミ箱を蹴り飛ばして大声で罵声を上げることもありました。逃げたかったけど、同じ部署の先輩は業界で権威のある方々ばかりだったので、ここでやめたら業界から消される(今考えたら大げさかもしれませんが)という思いと、逃げたら負けだという思いがあって、思いとどまりました。2004年になって今も友人として交流することとなる仲間が企画職で入社して、相談相手ができたのも大きかったと思います。

そして2006年頃、社長が変わって2代目社長が打ち出した中国事業のとばっちりを食らうようになって連日屈辱的な作業を繰り返すようになって逃げたくなりました。創業社長が某施策の大失敗で心折れたのか逃げるように辞めてしまい、2代目社長は大好きな中国への中国事業へ2005年頃から会社全体を挙げてのめり込み始めます。当初の中国事業は「中国で作ったものを中国で売って利益を上げるだけなので日本とは関係がない」という話でしたが、その後すぐに日本からの受託事業へ切り替えます。いくら中国が当時の日本の10倍の市場規模とか言っても、貨幣価値が日本の10分の1くらいなのですから、柱事業もまだない中国子会社が食っていけるはずもないでしょう。日本の親会社に利益を還元するなんて夢のまた夢。見通しが甘すぎます。2代目社長、最初から最後まで疑問符のつくことしかやらなかったのは、この会社の歴史の中で最大の損失と言えましょう。この勝手な転換に私の尊敬する先輩エンジニア達は激怒し、辞めていきました。子会社の中国人が書いたクソコードの尻拭いと連日の徹夜、なのに2代目社長とその取り巻きによって中国子会社がもてはやされ、日本の技術者は中国の10倍の人件費の金食い虫と呼ばれ、当時は本当に悔しくて毎日「次の日に退職したい」感じでした。この中国事業、2代目社長とともにYahoo!ファイナンス掲示板では連日バッシングの対象になっていた(社内では内部犯行説も囁かれていた)のですが、2008年頃には我々日本の開発部署の間では「そもそも中国の子会社から納品されるものが動くはずがない」という前提となってしまい、ヘルプが来たら「はいはい、次はどんなものかな〜♪」とか超楽しんでいました!当然のようなクソコードに悪態付きながら(しかも悪態ついても誰も不幸にならない!素晴らしい!)何故か動かないのに納品されてしまったものを、我々日本の開発部隊が明日早朝の納品に間に合わせるためにタイムアタックをする。日本で当時行っていたECサイトの開発部隊として僕が育てた若い後輩とともに、徹夜作業を楽しんでいた(?)のが懐かしいです。2代目社長の取り巻き連中は、社長肝いりの中国子会社を使うことそれ自体で2代目社長に媚びていましたが、時が過ぎると中国子会社に発注することで自分自身も相当な被害を食らうことが分かったのか、日本の開発部署を頼るようになりました。私が「あれ〜、日本は中国の10倍の人件費なんだよ?あの偉そうな営業部長も言ってるでしょ?どうして日本の僕らの部署を使おうとするのかな?ウェブ掲示板なんて誰でも作れる簡単なプログラムでしょ?君らの大好きな中国を使いなよ」と言ったりするのが、もうもう楽しくてなりませんでした。とにかく、いじって遊ぶくらいしか価値のなかった中国事業と取り巻き連中でしたが、最後の方はいじりがいのあるとても楽しい遊び道具でした。そりゃ、2代目社長の筆頭太鼓持ちであった当時の営業部長K(既に退職)が大阪弁で「10倍や!10倍やぁ!」とか言いながら営業社員全員を引き連れて、連日のように開発部署のところにあのドラマみたいに「総回診」よろしく威圧しておりましたら、こちらも出方がありますよねぇ。繰り返しますが私は最後のほうはとても楽しんでいましたよ。後半戦は後輩達という味方ができたからだと思いますが、本当に楽しかった。

その後、中国事業の失敗やその他諸々が積み重なって、2代目社長の失脚となりました。大阪証券取引所(現在は東京証券取引所)からもその詳細顛末が公表されております。そして日本でも事業の急激な縮小を行っていくことになることは上場会社としての公開情報なのですが、事業縮小で後輩がいなくなり、自分や後輩が作った思い入れのあるサイトを潰したり他社に売るためにひたすらサイト閉鎖作業や引継書を作っていた2009年ほど、精神的につらい時期は無かったと思います。先輩もいなくなり、後輩もいなくなり、そして丹精込めて作った思い入れの深いサイトも自ら潰していく。こんな作業を通年やっていたら精神的にもおかしくなるよなぁと、今になって思う次第です。実は企画職の元同僚(当時既に退職)にこのころ転職を勧められて、転職エージェントを紹介されたのですが、この転職エージェントが人生最悪級の出会いで、実は一度転職活動をした2010年の春から秋にかけて、この転職エージェントとのやりとりは最悪としか言いようのない出来事になりました。潰す作業と人売りとのやりとり、この二つの出来事はまさに10年間の中で公私含めて最も精神的に追い詰められた出来事でした。精神的に余力があれば後述します。人売り、金輪際絶対に信用しない!!!

冒頭でも述べましたが、当時の後輩達の最後の尽力で、私は研究職として多少の待遇改善をさせていただくことになりました。本当にありがたい。上司は自由に研究をさせてくれて、2011年から始めたコミュニティ活動により多くのアウトプットが発生したのですが、会社というか主にインフラ系部署との方針の違いで、入れたい技術がことごとく入れられず、自分の役割を果たすことと、それを実際の業務に一切活かせないことのギャップに苦しんだのが2012年でした。結果的に「成果」が出せなかったことや、それに関わる諸々の要因で2013年度に**%年俸が下がってしまうのですが、雑談でそのパーセンテージを話したら様々な人から「明日退職レベル」と言われる始末(年収自体は機密事項なので話していませんが)。コミュニティ活動で日々研鑽をしていたつもりが、同列の大手IT企業の初任給より年俸が下がってしまい、「技術書を買って自分に投資しながらでも貯金が貯まる」から「自分への投資を最低限まで押さえても貯金が減っていく」という負の連鎖になってしまい、ITエンジニアとしてどうしようもなくなってしまいました。

「**%の年俸減」はちゃんとした理由があって、業績減の中での業績連動型賞与制度の中で、長く在籍している(6年頭打ち)年寄り(30歳以上)で職能要件がその役職(平社員)で頭打ち(フェローポジションは無い)をしている人に対しては、限られた固定費から出す年俸を下げざるをえないという事情があったようで、信頼する某氏からその説明を受けて非常に納得した(最近入った若い子達はあまり被害を被っていない)のですが、役員説明が足りないよねぇという話はありました。私の活動が真っ向から否定されたわけではないようで、この時は安心しました。まぁ、それを聞いたところでITエンジニアとしての負の連鎖は払拭できなかったのが悲しいところですが。

そして2013年にそれら諸々の理由を携えて転職活動へ再度踏み出すのでした。今回は人売りの力は一切借りず、コミュニティ活動で知り合った人にこっそり話をして、一社ずつ採用活動をしている会社を紹介してもらい面接をお願いするといった細々とした活動をしていくのでした。転職活動中のお話については興味深いのですが長くなりそうなので、別ブログ記事ででも語れればと思います

学べたことはいっぱいある

研究職として新たなプロダクトを仕入れつつも、様々な理由で通年に渡って自分の提案するプロダクトが入れられなかったのは、私の戦略ミスも大きかったと思いますし、会社が保守的なプロダクトを柱コンテンツに据えていて、多くの物事がその延長線上で考えられていたこともあったでしょう。まぁほぼ全ては私の戦略ミスでしょう

「危ない事は一切させてもらえなかった」というわけでなく、世間でよく知られたmemcachedやTwiggyが「素性の知らないサーバとして受け入れられない」という無念な理由で導入を拒否された割に、Apache mod_perl を worker MPMで動作させて Perl の ithreads で変数共有といったような、他のPerlハッカーが聞いたら危険すぎて断固拒絶するような危険極まりないことも逆にやることになりました。私も当初反対したのですが、Twiggyを却下された上に結果的にそれしか方法がないと上司に説得をされ、その設計をすることになり商用環境に投入されました。動かなくてクレームが来ても困るというスタンスでしたが、結果的に動作したので面白い経験をさせていただきました。それはYAPCのネタにも結実したわけです。そういう普通の会社では縛りと言われるものが結果的にApache mod_perlを極めるきっかけになったのは興味深いです。

2003年まで、尊敬する先輩方が、当時では先進的な様々なものを投入した時代が移り変わり、当時の先輩方がPerl CGIの高速化の意味で「mod_perlを知らないと…」と言った発言を真に受けて、洋書のmod_perlの書籍を何冊も熟読して、最終的にApache httpd serverで任意のTCPサーバを書くまで至るとは思いませんでした。2011年から始めたコミュニティ活動のネタとして、そしてYAPC::Asia Tokyoでのネタとして結実するとは、先輩方がmod_perlが…と言っている太古の昔の私は、全く想像していなかったことです。

また、新しいことが何もできなかったわけではなく、在職中盤あたりに後輩達と携わったECサイトではCatalystのような自社フレームワーク自体のメンテナンスを担当させていただき、そこでも勉強したてのmod_perlの知識が大いに役に立ちました。サイトの最後のほうでは、Catalystのソースコードを読んで、そこからパクッてくるという事もよく行っていました。ウェブアプリケーションフレームワークというものでコードを書くという機会がほとんどなかったのにもかかわらず、それ自体のコードリーディングやメンテナンスをするといった良い機会となりました。

粘り強く新しいものを社内から広めていくという方策も、うまくいった部分もあれば、私の戦略ミスで軋轢を生んだ部分もあって、成果半分、反省半分といった感じです。AnyEventが有用であることを社内IRCボットなどを通じて社内に対してアピールできましたが、反面社内サーバで勝手にperlbrew環境を構築したことで平謝りをしたこともありました。正直言えば、「普通の会社」が「普通にやっていること」ができないことで大いに苛立った事は確かです。ただ、今ではAnyEventも(たぶん社内で)受容され、インフラ系部署が拠り所とする「原則的にDebian stableのパッケージのみを使った開発をせよ」という部分で、Debian stableがPlackやMojoliciousをdebパッケージに取り込んでくれたおかげで、社内ツールからようやくMojoliciousによる新規ウェブアプリケーション開発ができるまで開拓することができつつあります。

当時の不安定なPOEでネガティブな印象が沈着していたPerlによるデーモン開発も、Debian stableに入ったAnyEventが有用であるということも分かり、PlackやMojoliciousでの開発ができるまでになった。私だけの成果だけでなく、数年前に一人入った優秀な後輩の力も大きいですが、これだけでも最近の成果として充実したものだったなと思う次第です。

Debian stableにはまだ日本由来の多くのPerlパッケージが入っていません。なので、TengやAmon2やStarmanやStarletを使った開発ができず、ORMは独自でそれっぽいものを書いて、デプロイ先のHTTPサーバはmod_perl (Plack::Handler::Apache2) によるものであることはしばらくは変わらないものの、開発フローはだいぶ「普通の会社」に近づいたと自負しています。残念ながらまだperlbrewやplenv、またcpanmは商用環境では使えません。とはいえ、AnyEventによるデーモンも安定していることが認知され、dbjアレルギーでdaemontoolsが使えなくても、今後はDebian stableにも入ったsupervisorによるデーモン管理など、「普通の会社」の「普通の開発」ができていくのではないか、残された後輩に期待しつつ、多少満足しつつ私は会社を去ることにしました。今後はDebian Developerを目指し、fonfunのためにDebian stableに日本由来のPerlパッケージのdebパッケージを多く公式パッケージに入れていく事に尽力していきたいと考えています。そうすることで、最近ユーザ数が増えているUbuntuなどのDebian由来のディストリビューションでも「システムPerl」の活用が結果的にしやすくなるのではと夢見ています。Ubuntuをサーバとして採用する会社もあると聞きます。結果的に多くの会社や個人にメリットがあるコミュニティ活動ができれば本望です。

コミュニティ活動との両輪と研究職的ポジション

以前の後輩達により待遇改善と研究職であるという肩書きが増え、2011年くらいから研究職的ポジションに立って業務を行い試行錯誤したことは前述の通りです。

とはいえ何もかも上手くいったかといえばそうではありませんでした。これも私の戦略ミスである部分が大きいのですが、コミュニティ活動と研究職的ポジションを相乗効果として両輪回すことができなかったという反省点があります。

コミュニティ活動で得た有用なプロダクトを入れようにも、他部署との交渉の段階で「普通の会社」が行っていることができないということが多くありました。私の交渉力不足や説得力不足もありますし、結局は私が10年平社員でしかないということもあったでしょう。他部署の部長級・課長級の人に断られたら太刀打ちできませんから。多くの会社が導入をして、有用な成果を上げているミドルウェアなどが導入できなかった事を私の力不足に帰してしまうのは無責任ではありますが、他人のせいにするわけにもいかず、結果論的にそう論じざるを得ない部分が大きいです。

そういう部分も、粘り強く打開して、上述のように「普通の会社」が「普通にやっている」ことができつつあります。今後、残された一人の優秀な後輩と、これから入社するまだ見ぬ優秀なエンジニアには非常に期待しています

また、社名で検索しても2代目社長のおかげで「上場廃止」とか忌まわしきキーワードばかりがサジェストされる検索エンジン、なんとかしたいと社名のイメージアップのためにYAPC::Asia Tokyoへのスポンサードや、私自身が社名を引っさげてプレゼンテーションをしたりといった、コミュニティとの接点を持って「社名のブランド化」を進めたりしましたが、これは上司から聞いた話では社内であまり好評を得ていなかったそうです。事情は伏せますが、これも私の戦略ミスが大きく、現在も大いに反省しています。また、YAPC経由でエンジニアを採用すれば人売りに払う余計な手数料が要らないという謳い文句をしていたのですが、結果的に「YAPC経由で来るようなスキルの保持者に見合う年俸が払えない」という理由で何とかナビを使っているのを知ったときのショックは相当大きかったですね…。既に人売りアレルギーを発症していたので、その時はもう膝から崩れる寸前でした。優秀な人をそれに見合った年俸で雇用して好循環を回せるような会社になってほしいと、外部から微力ながらも応援していきたいです。

エンジニアとしての立ち位置

ECサイトなどで会社が盛り上がっていた時代のエンジニアの後輩達によって、私の待遇改善が図られたことは前述の通りです。給与的な部分には跳ね返らなかったのですが、私が希望していた「新しいことを切り開いていく仕事」というのを自由にやらせていただくことができました。これは上司の意向とも一致した部分であり、会社に感謝している部分でもあります。

反面、それらの知識を実戦投入することがほぼできなかったことは、数年の私の経歴にあまりよい影響を与えなかったという後悔はあります。個人やコミュニティで開発したものはありますが、会社だからこそできる中規模開発運用というものが何年もできなかったのは大きな損失でした。

繰り返しになりますが、結果的に「新しいものを取り入れる研究職的ポジション」という与えていただいた立場と、様々な事情により「新しいものが取り入れられない環境」というはざまで大いに苦しんだことは事実です。これだけではありませんが、結果的にこれが積もり積もった退職理由の主要な要因の一つとなりました。

入社時、もともと私はPerlも知らず、MSX BASICとC言語を少し書いただけのある大学院生でした。大学院でサーバ管理者を体験させてもらった経験を生かしてインフラエンジニアになろうとしていたのですが、そんな知識は当時の先輩方の前では大した知識でもなく使ってもらえず、ひょんなことからPerlを書きはじめてウェブプログラマとなったのでした。現在、多くの会社ではAWSなどの存在でインフラエンジニアとの境界線はなくなりつつありますが、今までの体験を活かして、プログラマが動きやすいインフラエンジニアという先祖帰りした立ち位置でも今後仕事をしたいと思っています。

社員の利益、会社の利益

会社に属している以上、第一に考えるべきは会社の利益でしょう。「新しいものを試したい」ことが手段ではなく目的になってしまうアーリーアダプター的エンジニアにはならないように細心の注意をしたつもりです。

それでも、新しいものを全く試せないことは、オープン系ITプログラマである私にとっては大きな損失でもありました。これは給与的にではなくキャリア的にです。中には本当に「新しいもの」を導入することが正しい案件もありましたが、そこですら導入ができなかったことは悔やまれます。worker+ithreadsのmod_perl案件も、後から考えてTwiggy+デーモン管理ツールのほうが良かったかもしれないねというのは、それの設計を当時命じた上司と後に話をしたときの結果でした。とはいえこの場合は結果的にworker+ithreadsが貴重な経験になったことは確かです。人生何があるかわかりません。

平社員がどこまで会社に貢献できるか

役職に特にこだわりは無かったのですが、結果的に約10年ずっと平社員でした。名刺に書いてあった「ソフトウェアアーキテクト」というのは肩書きであって役職ではないのです。

後から入社した人が続々と係長や課長になり、結果的に議論の場で平社員が不利になるということを何度か感じました。上司には「年齢も在職年数も上のほうが圧倒的に威圧感がある」と言われましたが、私はそんなことは全く感じませんでした。20人(公開情報)の会社なのに、なんでこんなにも役職があって、そして約10年在職した私が平社員なんだろう…と何度も考えました。それはひとえに、新しいミドルウェアを導入して新しい製品を作り会社を豊かにしたいという議論がほとんど通らなかったからです。

「正しいことをしたければ偉くなれ」とはよく言ったものですが、フラットな組織を理想として、幅広く多くの意見を言い続けたことは事実です。そんな中で受け入れられない事柄がほとんどで、それは裏をかえせば「うるさいことをいう人間」という印象を与えてしまったのでしょう。私の戦略ミスです。いやらしい話になりますが、昇格チャンスも同時に逃していたことでしょう。

私が入社した2003年はインフラエンジニアとプログラマが不可分な状態で、そしてその部署は会社の中で超がつくほど最強の権力を有していました。2003年にペーペーで入社しその部署に配属された私は、他部署の物言えぬ人の窓口となり、その活動が会社のためになってきたと自負しています。

ただ、その後、様々な出来事が重なってインフラエンジニアとプログラマが分化し、そして徐々にコミュニケーションロスが発生し始めます。これはDevOpsという言葉などで、世間のIT企業でも同じ道を歩み、そして今ではAWSなどの台頭でインフラエンジニアがプログラマ側に徐々に職能をシフトしているという傾向です。直近では私が社内で合同部会などを主催することで溝を埋めることに執心していましたが、結果としては成果半分といった程度でした。

当時のような結果的に閉じた部署にしたくないと、私が先導してプログラマ部署は心を開いて色々な雑用を引き受けたことで、多くの部署と仲良くなれましたが、結果的に部署間ヒエラルキーとしてあまり良い位置に立てなかったように思えます。まぁこれこそが私の戦略ミスですね…。そもそも20人いる社員のうち、プログラマー部署は片手で余裕で数えるくらいしか人がいなかった。権力を持ちたいとかそういうわけではないですが、私が考えている理想像を実現するための権力以前の発言力すらなかったのは事実だったと思います。他の部署はどうだったでしょう…。考えることは建設的ではないので、これは考えないことにします。

2012年に入社して、私がやっていた仕事を一手に引き受けることとなった優秀な後輩は、黙々と仕事をこなすタイプの人で、そういうことを一切考えないのは良い傾向だと思います。与えられた事を、その場で使える技術でどうこなすか、それだけをじっくり考えて仕事が出来る後輩のような人・立場であれば良い仕事環境だったことでしょう。私がこの会社で研究職的ポジションに就いたことは終わりの始まりだったように感じます。ただ、コミュニティ活動で視野を広げて、今に繋がる「mod_perlと言えば@xtetsuji」といった外部でのセルフブランディングが出来るまでになったことは、心底良かったと思っています。会社というか上司にもそれを支援していただいたことは感謝しています。私の人生という視点に立って、もっと良い選択肢はあったと思いますが、その時に出来る選択で結果的に大きく間違ったことはしていなかったはずです。

ここでの話は、プログラマー部署で研究職的立場である私が現時点のオープン系ITプログラミング業界における「普通のこと」をやろうと苦心した特殊な立場の話だということです。全く一般論ではありません。この会社に入社する・在籍している他の職種の平社員や役職者が、この会社で与えられたことを工夫して取り組むことは、会社の構成員として自然と会社のためになるはずです。そこについて、これを読んで他の立場の人が不安がる必要はないと思います。

ずっと考えていた人生設計

もともと、私の人生の転機は6年ごとに起こっていて(小学校入学まで、小学生、中学高校、大学大学院)、入った頃から出入りの激しいIT業界、長くても6年で次の会社かなーと思っていたら10年経っていたという状況でした。

最近では陳腐な都市伝説となってしまったものの「プログラマ35歳定年説」なんてものがありますが、35歳はある意味人生の転機となる年齢です。プログラマは35歳で定年せずとも済むようになったものの、面接時の人事は35歳を一種の境界線として扱うのはどの業種でも同様のようです。よっぽど優れた有名人などであれば別でしょうが…。

このIT業界は人の入れ替わりが激しい業界です。それだけ多くの企業間が引き抜き合戦を行っているわけで、それがゆえに各企業のノウハウが良い意味で流動化しているのかもしれません。人によっては「退職エントリや転職エントリを検索して全く何も出てこない会社こそヤバイ」という人もいます。また3年未満で職を渡り歩く真の「ジョブホッパー」のような人はさすがにこの業界でもあまり良い印象を与えませんが、私のように10年も同じ会社に居続けると「その会社のやり方でしか仕事ができない人」と思われるとも多くの人に言われました。IT業界、よほど愛着があって在職していることで会社と自分に相乗効果がある場合を除いて、6年くらいで一度立ち位置を見直してみることは大切なのかもしれません(これは闇雲に転職を勧めている意見ではありません)。

また私は、いつかは地元、できれば北海道のどこかに帰りたいとも考えています。ただ今はまだその時期ではない、東京でもっと刺激を受けて勉強する時期だとも思っていますが、そうであればもっと別の会社を経験するべきだとも思っていました。そんな中での2013年転職活動となりました。

次に働く場所も東京になる予定ですが、あと10年くらいは東京で修行しながら、その後北海道でも働けるよう自分自身も周辺事情も開拓していこうと考えています。

退職の理由

立ち位置のギャップ、社内での戦略ミス、キャリア上の戦略、人生設計上の流れ…。上記でも様々な理由らしきものがあがりましたが、どれも決定的な退職理由ではありませんでした。何しろ最近は「逃げたい」と思ったことが無かった。ただ徐々に働きづらくなったなという居心地の悪さは感じていました。これは全社的な職種全般の事では当然無く、私の立ち位置から見た感想でした。

総論を言ってしまうと文字では誤解を招きそうなので、これについての総論については別の場所で直にお会いしたときに話させてください。ちょうど #xtnight というイベントもあります。また今後も色々な勉強会に参加させていただく予定です。興味のある方には、その時にでもお話させていただければと思います。

まとめ

長文を書いてきて、まとまらない感じではありますが、私が10年間で得た体系的といえる知識はPerlくらいしかなく、私の年齢ともなると会社から勉強をするだけでなく会社へ具体的かつ迅速な貢献を求められることになります。当然ながら、次もPerlという武器を主軸として活動しつつ、今までできなかった分野への仕事へと広がりを持たせたいと考えています。

外向きの私の活動は、2011年からのコミュニティ活動からあまり変わらないと思います。むしろ、より「普通の会社」がやっている「普通のこと」や「普通の開発」の話が増えていくかもしれません。とはいえ、せっかく得たmod_perlの知識の火も絶やすことなく、継続的に研究していきます。ご期待ください。

若い優秀な人達が台頭する中、年齢の割にはまだまだ未熟ではありますが、これからもオープン系ITプログラマとして、どうぞよろしくお願いします。

株式会社fonfunを退職しました」への2件のフィードバック

  1. nayabu-

    2008年?だかはっきり覚えていませんが、以前fonfunにいました。
    当時SI事業部というのがあり、日本でモバイル系サイトを受注して、中国の小会社に発注・納品するという仕事でした。
    営業のKって確か駒木?だったかそんな奴ですよね。あいつ本当に最低野郎でした。あいつ、なにがしたいのかわからんでしたw。
    中国からの納品されたソースも汚く、改修なんて当然不可能。だから改修自体も中国に依頼するしかなく、みたいな感じでしたね。
    ちなみに1ヶ月で辞めました。今でも思っているのですが、すぐ辞めて正解だったと今でも思っていますw

    返信
    1. xtetsuji 投稿作成者

      nayabu- さん、こんにちは。

      お詳しい。まさにそれですね。あれを年単位でやったら心身壊すので、職歴にキズがついても1ヶ月で辞めて正解です。実際私は心身を壊して人生を大きく狂わされました。

      あの時の狂気に満ちた異常な組織については相当なまでに考察済みなので、様々な方々への知見共有として別のブログ記事で分析結果を書きたいと思っています。

      返信

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