文章を書く苦手意識を乗り越えるまでにやったこと、そして乗り越えたあと

文章を書く苦手意識を乗り越えるまでにやったこと、そして乗り越えたあと#interest_aeおがた (@xtetsuji) です。

最近「てつじさんって文章うまいですよね」と言われることが多く、なんだか驚いています。

確かに、2011年に「Hokkaido.pm#5」に参加して地方PM・勉強会登壇のデビューをしたあと、ブログを作って外に情報をアウトプットしたりオープンな場で積極的にトークをしたりしましたが、文章力だったりプレゼン力はやっと人並みというのが自己評価

特に最近では、Perl入学式で同じくサポーターをされている @note103 さんと文章力で並び称されることがあったりするのですが、@note103 さんは本職が編集者だし、それは恐れ多いとすら思っています。

自分自身、高校時代の最初までは、ほとんどといっていいほど文章を書けない・書かない人でしたそれは超がつくアレルギーの域ですらありました。

年末で、それこそ「文章を書く」時間もできたので、その文章が書けなかった時代から、それを乗り越えて自発的に文章を書くようになるまでにやったことを振り返ってみることにします。

書いてみたら単なる自分語りになってしまったので、年始とかで暇すぎる時にでも流し読みしてください

要約すると以下のようになります。

  • 好きなことを探してそれを表現しよう
  • 最初のアウトプットはハードルが高いけれど、それを乗り越えたらポジティブ・フィードバックが回り始める
  • 機会があればラブレターを書こう
  • 他人の文章を研究して文体模写や言葉遊びに挑戦してみよう
  • 抵抗がなくなったら多くの文章を書いて場数を踏もう

作文を全くと言っていいほど提出しなかった小学生時代

小学生になると、授業で文章を書くことも出てきます。国語以外の教科はだいたい定形文を書けば乗り切れますが、国語では作文というものが容赦なく襲ってきます。

小学生時代の私はどうしたかというと、ほとんどの作文を題名と名前のみで提出していました。本当に書けなかった。400字詰め作文用紙が目の前にあるだけで震えと冷や汗が止まらないくらいでした。夏休みや冬休みの読書感想文も書かなかったし、挙句の果てに卒業文集すら書きませんでした。先生から書けと言わて放課後残されても、絶対に書かないというか書けないということを繰り返し、先生を根負けさせ続けて作文から逃れていた小学生時代でした。

科学というか化学は好きだったので、元素記号とか化学式とか周期表とかモル計算とかは良く書いていました。英語も数学もわからず手探りでしたが、好きなものは手探りでもやってしまうものですね。

そう、なぜか小学校の卒業文集に私の作文が載っているのですが、あれは私の知らないゴーストライターによるものです

高校受験のための最小限の文章をやっとの思いで書いていた中学生時代

中学生になると、国語の作文以外にもそれなりに文章を書く必要が出てきます。

小学生時代は苦手科目も含めて自主的に勉強することをしてこなかったので、高校受験に備えて学習塾に入りました。

この頃から、国語以外でもそれなりの文章を書く必要が出てきました。

算数からバージョンアップした数学では、ユークリッド幾何学で「証明」というものが求められます。当時は加減乗除や方程式の計算は難なくできたけれど、まだ数学に対して特段の興味というものはありませんでした。とりあえず、「証明」は塾で習った定型文作成テクニックを使って乗り切りることができました。

科学好きだったので部活は科学部に入部。本当は化学をやりたかったけれど、先輩からの引き継ぎで生物をやることになりました。実験レポートは定型文や箇条書きだったりをやっとの思いで書いていて、学年が上がって後輩ができるにつれて後輩にまかせるようになったと記憶しています。どちらかというと、顕微鏡で微小生物を観察してその絵を描かないといけないのが絵心のない私にとっては大変でした。

中学校には「弁論大会」という行事がありました。名前の通り、自分の主張を壇上で弁論するものなのですが、当時主張らしい主張もなくて文章を書くのも精一杯の自分にとって、この弁論大会は苦行でしかありませんでした。しかも書かないと内申点が下がる。小学校時代のようには行きません。

この時代は環境破壊が中心的な社会的問題となっていて、非常に多くの生徒が森林伐採であるとか割り箸の消費といったことをテーマにした作文をしていました。弁論大会というか割り箸バッシング大会みたいで、当時文章が書けなかった私でも「それはどうなんだ」っていう気がしました。よくわからないけれど、たぶん問題はそこだけではないだろうと。

私はというと、マジョリティに染まりたくないという中二病的考えと文章が書けない病の合併症で、なぜか「世の中には自動販売機がたくさんあります。自動販売機はすごい」とただ最初から最後まで自動販売機をひたすら称えるだけの作文をした記憶があります。オチも何もない。そもそも文章が書けない中学生です。起承転結とかというものを考えることすらできなかった。

国語の文章要約なども含め、5教科は塾で教わったテクニックで乗り切りました。小学生時代のように黙殺して先生が根負けさせることができる作文は書きませんでした。

なお、中学生時代の卒業文集にはゴーストライターは現れませんでした。つまり私の作文は書かなかったから載らなかったという自然な流れとなりました。よかった。

塾のおかげでなんとか高校受験もうまく行って志望校に合格することが出来ました。

数学に目覚めてそれによって文章を書くようになった高校時代

10クラスあった高校に進学しましたが、私の入った1年J組には誰一人知っている人がいませんでした。同じ中学校だった13人の進学組も、塾で知り合った隣の中学校の人達もいませんでした。そういうことも重なり、私は初日に出席番号と席が隣接していた小野山という奴に声をかけて、次の日から小野山から執拗ないじめを一年間受け続けることになりました。クラスの他の人達は知らない人で貫かれ、クラスの彼ら彼女ら誰もが「私が非捕食者となっている厄介な生態系」に関わろうとはせず、見て見ぬふりをしました。

この「失われた高校1年」は、授業以前にクラス内で行われていた事のマトモな記憶がありません。執拗に首を絞められていたり、窓から突き落とされそうになったり、服を汚されたりしたトラウマだけが記憶に残っています。文章を書く書かないといったことを考える状態ではありませんでした。そのことについての詳細は、いつかブログに書こうと思います。

高校入学時に入部した化学部が校内唯一の憩いの場でした。英語・国語・数学・社会の成績が落ち続けていても、中学時代までに勉強した化学の知識と、化学部での体験で、なんとか化学だけは良い成績を維持出来ました。

高校2年時にクラス再編となり、小野山からは遠ざかりました。さらに中学時代に親しかった同じ中学校卒の事情通と再会し、そのことを話したことがきっかけで、学年全体での小野山包囲網ができたらしく、私はようやく普通の生活を取り戻しました。

高校2年になってから、まずは落ちた成績の補修から始めました。

色々と気分で、高校時代になってからは塾には入っていませんでした。とはいえ中学校時代の塾で勉強の仕方はなんとなく分かっていたので、手探りで進めていくことにしました。当然ながら国語は敬遠しつつ、まずは積み重ねが重要な数学から始めることにしました。この頃、三角関数と数列をひたすら勉強した記憶があります。多少「証明」に文章を書く必要がありましたが、ユークリッド幾何学ほどではありません。ここで多少文章を書いたことが「ザコ敵を倒して低いレベルを少し上げる」という体験になったと思います。

とはいえ、国語の授業は中学時代までのような「作文」をあまり要求しなくなったのは幸いでした。中学時代から英語の成績は芳しくないことに変わりはなかったのですが、国語の心理的負担がある部分減ったことは助かりました。古文や漢文は機械的に頑張り、現代文は何度も読むことで、中学時代の塾テクニックの応用で乗り切ります。

この頃、化学部と山岳部がトラブルののち融和し、同じ学年の山岳部の人達との交流がスタートします。その中に物理の秀才がいて、彼との対話の中で特殊相対性理論などを教わりました。それは非常に興味深い世界で、そこで繰り広げられている内容はまさに数学であり、化学から物理へ興味が移行していくことになり、ほどなく特殊相対性理論の道具となっている数学へ興味が移行していきました

授業で微分積分を学んだことで、初めて数学がとてもスゴイものだと感動(多くの人と逆かもしれません)しました。幸い、成績立て直し時に三角関数と数列を重点的に学び直していたので、高校2年の知識から高校3年の理系数学を自習することができました。特殊相対性理論で使われていたテイラー展開だったり、物理の秀才と意気投合して大学数学で習うような微分積分学まで学習の範囲を広げました。

まさにここまで来るとイプシロンデルタ論法であるとか、手探りで自分の言葉で証明という名の文章を書いて数学を論じていくことになります。それは純粋に数学、いや微分積分学が楽しかったから。初めて、学校で習うような教科や学問を自分の言葉で論じたいと思った瞬間でした。

化学への興味が減った当時の自分は、化学部では副部長として部長の実験の補佐をしつつ、お菓子を作って文化祭へ出品して実験費を稼ぐという役割になっていました。放課後は山岳部の物理の秀才と一緒に物理と数学に取り組む生活でした。その中で意見を交わすために、レポートを書きあって持論を展開し、そこで文章力を培ったのだと思います。また、部員がゼロになった数学研究部を引き取ることになり、そこで部長となりました。

高校3年になると後輩も入部してきて、化学部にも部員が入ってきました。

その中で化学だけではなく数学にも興味を示してくれる女子がいて、数学研究部にも入部してもらうことになりました。彼女は中学時代、市内の塾でトップクラスの成績を収めていて、特に国語が得意で、小説を中心としたかなりの読書家でした。

彼女の表現は面白いほど詩的かつ修辞法的技法に富んでいて、書いてもらった数学の証明を読んでいても、機械的な受験テクニックによって書かれた証明以上の面白さがあって、そこで文章の力を感じることになるのでした。

それに面白さを見出した私も、そういう修辞法的テクニックを真似て数学のレポートを書くことになりました。当時は恋愛的好意が曖昧であるまま、縦読みのような言葉遊びのトリックで、ラブレターのようなフレーズを隠した数学のレポートを書いて、それを彼女に読んでもらってどう受け取ってもらえるか試したりしていました。高校生にもなって中二病か!

よく大学数学でネタを作る人がやったりしますが、数式展開からもメッセージが浮かび上がるような題材も作りました。恋愛以前に、これは私に数学的にも文章力的にも力をつける大きな出来事だったと思います。

こういうのを見ると、当時こんなことやったなぁと思い出したり…。

最近はケータイメール時代からLINE時代になって、長い言葉や文章で愛を伝えることはすっかり無くなってしまった気がします。ラブレターなんて、気恥ずかしい時代遅れのことだとさえ思われていることでしょう。

ラブレターを熟考しながら紙に書くことは文章力が上がる格好の教材でしょう。なにせ人間の根源的欲求に近いわけですから。ただ、ネットによって瞬時に伝わる現代の短文メッセージ文化の中ではそういう機会を作ることは難しいことかもしれませんね。まだPHSが出始めたころのアナログ時代の古い人間だからこそギリギリできた文章力アップの手法なんだろうなぁと感じます。

数学を勉強しつつインターネットに出会った大学時代

数学科に進学したかったものの英語の成績が振るわず、北海道の数学科 (それは北海道大学ひとつだけなのですが) を受験することを高校3年時の担任が許可してくれなかったので、私は東京の私立大学の数学科に進学することになりました。これを私は「英語ができなかったので北海道から追放された事件」と呼んでいます。

大学の数学科の一学年は80人位で、数学科にしては男女比もバランスの良いものでした。ただちゃんと授業に出席する人は1割にも満たず、女子との出会いもほぼ無くなったので、数学でラブレターを書くことはなくなりました。

その代わり熱心に数学に夢を持っている同期と数学の議論をレポートを交わす形で行いました。高校数学を越えた数学手法で、それを取った理由であるとか、数学的帰納法の最終的な解を類推した経緯を書いたりすることは、まさに自分の言葉でした。大学の数学は計算ではなく証明の世界であり、高校数学から見ると哲学か文学をやっているような感覚でした。高校時代の延長線上で数学を道具として楽しみたいのであれば、物理学科にでも行くべきだったのかもしれませんが、私にとって数学科に行けたことは結果的に幸いだったのだと思います。それが物理学科より就職に不利である数学科だったとしてもです。

大学や、その後進学する大学院では、TA (Teaching Assist: 大学院生が大学生にゼミをすること) や大学内のコンピュータ部門のインストラクターをしたり、教育に近いことに関わることも多くなりました。

高校時代から数学研究部の部長として後輩に数学を教えたりしていましたが、教えるスキルは文章を書くスキルと似ていると感じることが多く、それも文章を書くスキルを下支えしたのかもしれません。

大学に進学してからインターネットというものに出会います。当時の私はプログラミングには全く興味はなく、インターネットは地元と安価に連絡できる手段として魅力的に映りました。そう、私の時代は市内通話3分10円、北海道への市外通話はとても高い、携帯電話も出始めたころでした。

電子メールは現代の手紙のようなものです。貧乏学生の私は、電話を使うことなく電子メールをひたすら書き続けることで文章力を付けていったのかもしれません。それも高校時代に文章を書くアレルギーを払拭できていたことがあってのことでした。

当時はまだ不特定多数へ文章で意図を伝えることに慣れていなかったため、メールであるとかウェブ掲示板やネットニュース (これも年齢がバレますね) などで、考えの行き違いから誤解を生んだりトラブルや喧嘩や疎遠になってしまったこともありました。それは文章力の足りなさだけでなく、当時の私が人の考えを慮るほどの成熟な考えを持っていなかったこともあるでしょう。

当時のインターネットのウェブサイトは、まだまだ表現力が乏しい時代でした。Netscape Navigator 3 時代で、メディアファイルで使えるのはJPEGがやっとという時代。この時代だから流行ったのがいわゆる「テキストサイト」というものでした。先行者の「侍魂」であるとか、そのあたりを知っていると年齢がバレるかもしれませんね。

テキストサイトはネタを膨らませて読者を笑わせるサイトが多かったわけですが、表現力の乏しさを補うために、font要素で色を付けたり文字を大小させたり、brで大量の改行を作ってページに空白部分を作ったりといったテクニックが常套手段となっていました。テキストサイトは面白くありますが、これは文章力だけの面白さじゃないなとも思い始めます。それはある種のプレゼンテーションスキルとも言えるわけで、一概に否定できるわけではありませんが、もっと純粋に、「テキスト」サイトなのですから「テキスト」だけで勝負できないものかと思っていて、当時出会ったのが、今ではデイリーポータルZの編集長として有名な林雄司さんによる「Webやぎの目」というサイトでした。

当時の「Webやぎの目」は「やぎコラム」(いまは「やぎポエム」)という名前で、ほぼ毎日更新されていたのですが、それは文字装飾などを使わず、原則的に4段落で起承転結を踏襲するというある種ストイックな「形式」の中で人を楽しませる非常に秀逸な文章でした。当時の私もそれに影響されてウェブサイトを作って、人に隠れて自分も毎日そのフォーマットを踏襲して大学時代ずっと文章を書いてサイトにアップしつづけました。ブログが一般化するのはあと数年待つ必要がありました。

その自分のサイトは、高校時代の友人達にはウケて毎日読んでもらえるようなサイトとなり、面白いと言ってくれると喜んで、また毎日書く原動力となるという好循環を生んでいました。今の時代でもできることですが、毎日特定のフォーマットに従って文章を書くという習慣をつけることは文章力を上げるための良い方法だと言えるでしょう。

また、林雄司さんリスペクトではありましたが、そのサイトを更新している間は毎日面白い出来事を探すということが習慣化されていて、それは心にも良い影響を与えていたと思っています。

社会人になってしばらくしてから、多忙になってサイトの更新を止めてしまいましたが、今でもまた再始動してみたいとすら思っています。再びウェブサイトでアウトプットを始めるのは2011年のブログ開始からでした。

その他に、数学のインカレサークルで活動していた縁でコンピュータが苦手な人の数学の論文をLaTeXという数学組版ソフトに落とす仕事を行ったり、編集者っぽいこともしていました。

大学院の数学はやればやるほど大変で、当時の私には楽しさを見出す余裕すらなくなってしまいました。その中で大学院生室のサーバ管理者をやることになって、そこで得たサーバ管理のスキルを使って卒業後に働き始めることになりました。

社会人になってから

大学院を卒業して2ヶ月後、当時のネットビレッジ  (今のfonfun) という会社でアルバイトを始めることになりました。就職活動をしていませんでしたが、拾ってもらって助かりました。当時はまだネットベンチャーは今ほどメジャーな存在ではなく、アルバイトから拾ってもらうというのも特に抵抗はありませんでした。特に大企業志向があったわけでもなく、サーバ管理者の技術で食いつなげばいいやという甘い考えでした。

社会人になると各種文章を書くことが一種の仕事となります。事務スキルの一つとも言えます。

当初はサーバ管理者として頑張ろうと思っていたら、結局はサーバ管理者としてのスキルが低いということで、まずは下積みとして社内情シスをしていました。教えることが得意だったので良い仕事でした。その中でチュートリアルなどの文章を書くことも出てきました。

また社会人ともなると、対外的に書く文章と内部的な文章の違いを意識して書くことが多くなってきます。そういうことに気をつけつつ、あたかも他の人が書いたような文体模写的なことも意識してやったりすることがありました。これは以前から細々とやっていた文章遊びみたいなやつです。文体模写するためにはその対象の文章を読んで特徴をつかむ必要があって、それによって文章の違う側面からの書き方を学ぶことができたりして良い経験になりました

その後はひょんなきっかけでプログラミングをすることになって、ウェブプログラマーとして働くことになりました。

このころは技術書をひたすら読み漁って知識を吸収する時期でした。あまり読書しない人ではありましたが、この時期は相当読書していました。やはり人の文体を意識しながら書籍などを読むことで色々な勉強になります。和訳の技術書の癖だったり、そういうのを読んで、あえて英訳しやすいように和訳の技術書のような文章を書いたりすることもありました。

後輩ができてからはWikiを作って、そこにひたすら文章を書いていきます。ここでだいぶ文章を書く場数を踏めました。やはり場数を踏むしか無いんだろうなとは、今振り返っても感じるところ。対外的にアウトプットしていくのは2009年9月のTwitterアカウント作成から2011年のブログ作成まで待つ必要があります。

2010年に一度個人的事情で人生窮地に追い込まれてから、これではいけないと2011年から対外的活動を始めました。ブログを作って、Hokkaido.pm#5 のトークデビューをきっかけに多くの人に見てもらうためのスライドを作ってプレゼンテーションをしていくことになります。その後もPerlを中心とした勉強会や話題で、ブログ、スライド、プレゼンテーションを繰り返していって、ようやく人並みに近い文章力が身についたのだと思います。

その流れでPerl入学式に出会い、Perlの教育という目的に賛同することとなります。最初はサポーターとして活動していましたが、徐々に講師であったり広報っぽいことだったりと、色々なことを体験させていただいて今に至ります。2015年もPerl入学式を広めてオープン系ITエンジニア業界を盛り上げていくために、文章を書いたり、様々な施策にチャレンジしていこうと考えています。ご期待ください。

それでも、2014年年末の今振り返っても、私の活動は知人のITエンジニアの方々に比べたら全然足りないほうだなと反省することが多かったです。今年は病気や転職や仕事の多忙や退職などをはじめとして自分的感覚で慌ただしい年ではありましたが、アウトプットだけでなく、様々な事情で思考力や集中力も出せず読書などのインプットも少なかったので、2015年はジャンル問わず様々な文章を読みあさり、書いて様々な方に読んでもらいと思っています。

以前Twitterで「自分語りをしたら末期、自伝を書いたら終わり」みたいなことをみたのですが、そんなことは全くないんじゃないかなと思います。過去に拘るのではなく、自分の人生を振り返り、次の指針にすることは大事ですし、まず私自身が皆さんのことを知りたいからそういう文章を読みたいということがあります。みなさんもブログなどで文章を公開するということで、ぜひ私に良い文章を教えてください!

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