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株式会社fonfunを退職しました

おがた (@xtetsuji) です。

このたび2014年1月31日をもって、大学院卒業後の2003年5月25日に入社した「ネットビレッジ株式会社」時代から約10年間勤めた「株式会社fonfun」を退職することになりました。

これを書いている2014年1月現在ではまだ在籍はしていますが、最終出社日は2014年1月17日だったので、事実上退職をした状態になっています。

今まで「期日が決まったアルバイトを自動的に辞めた」ということはあったのですが、正社員として勤めた会社で正式な退職手続きをしたのは人生始めてとなりました。この移り変わりの激しいオープン系IT業界で約10年勤続という話をすると、多くの人に長いと驚かれることが多いくらい長かったです。

いわゆるこのような「退職エントリ」は、おもにオープンに活動するITエンジニアの同報通信的意味合いでしかありません。何らかの材料を探している人(株主など)は下記の私の長々とした思い出を読んでも得られるものは無いと思います。この点については、以前のブログエントリ「私が考える転職エントリのありかた」をご一読ください。

はじめに

書く前から想定していましたが、10年の思い入れのある歴史を振り返ったりしているので非常に長文な記事です。それだけに、私を応援してくださっている方にはぜひ読んでもらいたい記事ではありますが、忙しい方に向けて箇条書きで要約を書いておきます。

  • 大学院卒業後、2003年5月25日に入社した株式会社fonfunを退職することになった
  • 今のfonfunには期待しているし、今後も求められれば外部の人として応援していければよいと思っている
  • 10年の間に2回社長が変わったりして、3つの特色ある時代を過ごしてきて、正直弁護しきれない酷い時代もあったけど、今の時代は平和
  • 10年間のうち最初の7年間で先輩や後輩から色々学び、後の3年間はコミュニティとの両輪で成長していった
  • 色々な事があったけど、結果的に最後の数年の孤軍奮闘時代に会社に合わない施策を打ち出し続けた私の戦略ミスが大きかったと感じている
  • 当然ながら、退職を決断するまで非常に多くの要因があったが、総合的に退職を決断するに至った

誤解を招きたくなかったりするのでいくつか。

  • 長文の中には私の文章力不足等で誤解を招く部分があるかもしれませんが、私は今も昔もfonfun(と昔のネットビレッジ)という会社が好きだという根底が脈々と流れています。仕事仲間としてもプログラマーの仲間としてもとても大切な一人の後輩を残し、自社株をまだ持っている身として、今後とも外野から応援することは退職交渉時にも宣言しています。
  • 時々ある「退職エントリ」推奨派が言う「業界を良くするために前職の悪い点はどんどん糾弾しろ」といった内容は含まれていません。ただ、なるべく中立的な視点で良い点・悪い点を並べて書いている部分はあります。これは愚痴や文句ではなく、改善すれば会社も業界も良くなるだろうと考える私の主観的考えです
  • 私のことを応援してくれる方にはぜひ読んでもらいたいのです。ただ、こういうことは出来れば書きたくはないものの、私のことを嫌っていたり良く思わない一部の方は出来れば読まないでいただきたいと思います。ポジティブとネガティブは表裏一体です。私の事を良く思わない人は、私のポジティブワードを全てネガティブに読み替えてしまい、きっと嫌な気分になるだけです。

謝辞

最初に謝辞を書くのはどうかと思ったのですが、長文なので最初に書いておきます。

  • 2003年入社当時、大学院時代に習得したサーバ管理の知識で食っていけるかなといった甘い考えで入社した私に対して、厳しくも要所要所で的確に育てていただいた大御所のITエンジニアの先輩方には本当に感謝しています。「日本○○協会」の理事クラスの人とか当時ゴロゴロいて、「ここでミスしたら即刻業界から消される!」と日々戦々恐々としていました。
  • 入社して1年ちょっと経過した2004年ごろから会社の柱プロジェクト以外にも多角的にコンテンツ事業をしていこうということになり、そこでペアを組んだ若い企画職の後輩の皆さんや同僚がいたからこそ、Perlを使ってウェブプログラミングをするプログラマーとして自立することができました。私が力不足で一人でプロジェクトを任せられるレベルにないと部署内で先輩方から言われていた時に、無理を言って私を使ってくださった最初の企画職の方々には本当に感謝してもしきれません。
  • 2005年頃からECサイトを大々的に開発していくことになった際に入社した、多くの後輩プログラマーの方々は、本当に私を立ててくれました。最終的には私の待遇の低さをめぐって会社側と交渉までしてくれて、当時まだ力不足だった私にとって本当にありがたかったことは言うまでもありません。今でも本当に感謝しています。

上記で謝辞を述べた方々は全て退職していってしまいました。大切な人が去るたびに、自分も去るべきか何度も悩んだ事は事実です。

また、当時の「ネットビレッジ株式会社」へ行けとアドバイス下さった大学院時代の(他学科ではありましたが)先輩のMさん、ありがとうございます。

また、2013年1月現在fonfunに在職している方について、色々とご迷惑をおかけしましたし、また現在進行形でお世話にもなりました。本当にありがとうございます。

入社のきっかけ

思い出振り返りになりますが、入社のきっかけを書いておきます。10年前とはこの業界では悠久の時ですね。

2003年3月、大学院の卒業式がありました。そこで誰かに「次はどうするの?」と聞かれて、「あ!就職活動とかしていない!」と気づいたのでした。バカですね。

2003年3月現在、アルバイトとして働いていた付属の女子大のシステム構築が長引いていて4月上旬までそちらにかかりっきりになっていました。4月中旬にそれも落ち着いて、アルバイトとしての契約が終了ということで、改めて先輩と相談をしようと 、古巣の大学院生室に行ったところ、普段からよく訪ねてきてくれていた他学科の大学院生の方がいらっしゃいました。状況を相談したところ「ネットビレッジに行け!」と言われて、それに従って面接に行ったのです。何でですかと聞いたら「○○がいるからに決まってるだろ!」と一喝されてしまいました。本来であれば長い無職期間を作りたくなかったのですが、4月下旬に自転車で転倒事故を起こして顔面がひどいことになってしまい証明写真が取れず、2003年5月25日の入社となりました。当時の業界はまだ未成熟で、ネットビレッジに限らず、多くの会社は試用期間としてアルバイト(準社員)採用を普通にしていました。私は大学院を卒業したにも関わらず、卒業後アルバイトをすることになったのです。今では考えられないと良く言われることです。

面接では、入社後上司になり、今(2014年1月現在)ではJPAの理事となった方が面接官でした。「Emacsは使いますか?」という問いに、「はい、navi2chで2chをみようと思って使い始めました」とバカ丸出しの回答をして「コイツ絶対落とす!」と思われていた事を相当年月が経った後で聞きました。どうやら前述の相談に乗ってくれた先輩がDebian関連のIRCチャンネルで「採用しておくときっと役に立つ」と口添えしてくれたから救われたらしいです。本当にありがたいことです。

入社日は社内が大騒ぎだったことを覚えています。そう、2003年5月25日は初めての505iのi-mode端末が発売する日だったのです。今でいうガラケーが全盛だった時代、ドコモの新ラインナップ発売という出来事はケータイ業界が大騒ぎする出来事でありました。i-modeがこの10年で事実上姿を消して、Android/iOSという二強にすっかり置き換わるとは、この時は全く想像できない出来事でしたね。

在職中の思い出 〜在職約10年間と特にここ3年間を振り返る〜

入社のきっかけは上記の通りです。なんと怠惰な大学院生だったことでしょうか。これによって、「最後の紙の就職活動」「空前の就職氷河期」と言われた時代、ほぼ就職活動をせずに2回スーツを着ただけで結果的にアルバイトを経て正社員になることができました。感謝。

他人の「退職エントリ」は好きで結構読むのですが、こうやって私自身が退職エントリを書くことになるとは、約10年同じ会社で頑張って働いてきて、なんだか不思議な気分です。

よくある、入社3年前後で次の会社に行くような「準ジョブホッパー系」の人は「嫌なことは無かったし辞めたいと思ったこともなかった。ステップアップしたかった。」といった事を書いていますが、私は何度も辞めたいと思ったことがあります。辞めたかったというか逃げたかった、のほうが正しいかもしれない。綺麗事なんて言うつもりはないです。だいたい3年に一度は逃げたくなりました

とはいえ、ここ数年は全く落ち着いてしまって、逃げたいという感情を抱いたことは無くなったことは、会社全体が良くも悪くも落ち着いた証拠なのだと思います。2代目社長とその取り巻きが一掃され、3代目社長体制の努力の賜物でしょう。

逃げたかった話を3年ごとに分けて書いてみたいとおもいます。

まず2003年に入社してすぐ逃げたいと思いました。柱コンテンツの第4世代へのバージョンアップがうまくいかず、入社してから1年くらいはずっとバグとクレームとの戦いでした。傍観するしかなかった私も微力ながら協力しようと頑張りましたが、先輩方が発する凄まじい不機嫌オーラに押し潰されそうになることは何度もありました。時には協力会社がアホなことを言い出して、先輩がゴミ箱を蹴り飛ばして大声で罵声を上げることもありました。逃げたかったけど、同じ部署の先輩は業界で権威のある方々ばかりだったので、ここでやめたら業界から消される(今考えたら大げさかもしれませんが)という思いと、逃げたら負けだという思いがあって、思いとどまりました。2004年になって今も友人として交流することとなる仲間が企画職で入社して、相談相手ができたのも大きかったと思います。

そして2006年頃、社長が変わって2代目社長が打ち出した中国事業のとばっちりを食らうようになって連日屈辱的な作業を繰り返すようになって逃げたくなりました。創業社長が某施策の大失敗で心折れたのか逃げるように辞めてしまい、2代目社長は大好きな中国への中国事業へ2005年頃から会社全体を挙げてのめり込み始めます。当初の中国事業は「中国で作ったものを中国で売って利益を上げるだけなので日本とは関係がない」という話でしたが、その後すぐに日本からの受託事業へ切り替えます。いくら中国が当時の日本の10倍の市場規模とか言っても、貨幣価値が日本の10分の1くらいなのですから、柱事業もまだない中国子会社が食っていけるはずもないでしょう。日本の親会社に利益を還元するなんて夢のまた夢。見通しが甘すぎます。2代目社長、最初から最後まで疑問符のつくことしかやらなかったのは、この会社の歴史の中で最大の損失と言えましょう。この勝手な転換に私の尊敬する先輩エンジニア達は激怒し、辞めていきました。子会社の中国人が書いたクソコードの尻拭いと連日の徹夜、なのに2代目社長とその取り巻きによって中国子会社がもてはやされ、日本の技術者は中国の10倍の人件費の金食い虫と呼ばれ、当時は本当に悔しくて毎日「次の日に退職したい」感じでした。この中国事業、2代目社長とともにYahoo!ファイナンス掲示板では連日バッシングの対象になっていた(社内では内部犯行説も囁かれていた)のですが、2008年頃には我々日本の開発部署の間では「そもそも中国の子会社から納品されるものが動くはずがない」という前提となってしまい、ヘルプが来たら「はいはい、次はどんなものかな〜♪」とか超楽しんでいました!当然のようなクソコードに悪態付きながら(しかも悪態ついても誰も不幸にならない!素晴らしい!)何故か動かないのに納品されてしまったものを、我々日本の開発部隊が明日早朝の納品に間に合わせるためにタイムアタックをする。日本で当時行っていたECサイトの開発部隊として僕が育てた若い後輩とともに、徹夜作業を楽しんでいた(?)のが懐かしいです。2代目社長の取り巻き連中は、社長肝いりの中国子会社を使うことそれ自体で2代目社長に媚びていましたが、時が過ぎると中国子会社に発注することで自分自身も相当な被害を食らうことが分かったのか、日本の開発部署を頼るようになりました。私が「あれ〜、日本は中国の10倍の人件費なんだよ?あの偉そうな営業部長も言ってるでしょ?どうして日本の僕らの部署を使おうとするのかな?ウェブ掲示板なんて誰でも作れる簡単なプログラムでしょ?君らの大好きな中国を使いなよ」と言ったりするのが、もうもう楽しくてなりませんでした。とにかく、いじって遊ぶくらいしか価値のなかった中国事業と取り巻き連中でしたが、最後の方はいじりがいのあるとても楽しい遊び道具でした。そりゃ、2代目社長の筆頭太鼓持ちであった当時の営業部長K(既に退職)が大阪弁で「10倍や!10倍やぁ!」とか言いながら営業社員全員を引き連れて、連日のように開発部署のところにあのドラマみたいに「総回診」よろしく威圧しておりましたら、こちらも出方がありますよねぇ。繰り返しますが私は最後のほうはとても楽しんでいましたよ。後半戦は後輩達という味方ができたからだと思いますが、本当に楽しかった。

その後、中国事業の失敗やその他諸々が積み重なって、2代目社長の失脚となりました。大阪証券取引所(現在は東京証券取引所)からもその詳細顛末が公表されております。そして日本でも事業の急激な縮小を行っていくことになることは上場会社としての公開情報なのですが、事業縮小で後輩がいなくなり、自分や後輩が作った思い入れのあるサイトを潰したり他社に売るためにひたすらサイト閉鎖作業や引継書を作っていた2009年ほど、精神的につらい時期は無かったと思います。先輩もいなくなり、後輩もいなくなり、そして丹精込めて作った思い入れの深いサイトも自ら潰していく。こんな作業を通年やっていたら精神的にもおかしくなるよなぁと、今になって思う次第です。実は企画職の元同僚(当時既に退職)にこのころ転職を勧められて、転職エージェントを紹介されたのですが、この転職エージェントが人生最悪級の出会いで、実は一度転職活動をした2010年の春から秋にかけて、この転職エージェントとのやりとりは最悪としか言いようのない出来事になりました。潰す作業と人売りとのやりとり、この二つの出来事はまさに10年間の中で公私含めて最も精神的に追い詰められた出来事でした。精神的に余力があれば後述します。人売り、金輪際絶対に信用しない!!!

冒頭でも述べましたが、当時の後輩達の最後の尽力で、私は研究職として多少の待遇改善をさせていただくことになりました。本当にありがたい。上司は自由に研究をさせてくれて、2011年から始めたコミュニティ活動により多くのアウトプットが発生したのですが、会社というか主にインフラ系部署との方針の違いで、入れたい技術がことごとく入れられず、自分の役割を果たすことと、それを実際の業務に一切活かせないことのギャップに苦しんだのが2012年でした。結果的に「成果」が出せなかったことや、それに関わる諸々の要因で2013年度に**%年俸が下がってしまうのですが、雑談でそのパーセンテージを話したら様々な人から「明日退職レベル」と言われる始末(年収自体は機密事項なので話していませんが)。コミュニティ活動で日々研鑽をしていたつもりが、同列の大手IT企業の初任給より年俸が下がってしまい、「技術書を買って自分に投資しながらでも貯金が貯まる」から「自分への投資を最低限まで押さえても貯金が減っていく」という負の連鎖になってしまい、ITエンジニアとしてどうしようもなくなってしまいました。

「**%の年俸減」はちゃんとした理由があって、業績減の中での業績連動型賞与制度の中で、長く在籍している(6年頭打ち)年寄り(30歳以上)で職能要件がその役職(平社員)で頭打ち(フェローポジションは無い)をしている人に対しては、限られた固定費から出す年俸を下げざるをえないという事情があったようで、信頼する某氏からその説明を受けて非常に納得した(最近入った若い子達はあまり被害を被っていない)のですが、役員説明が足りないよねぇという話はありました。私の活動が真っ向から否定されたわけではないようで、この時は安心しました。まぁ、それを聞いたところでITエンジニアとしての負の連鎖は払拭できなかったのが悲しいところですが。

そして2013年にそれら諸々の理由を携えて転職活動へ再度踏み出すのでした。今回は人売りの力は一切借りず、コミュニティ活動で知り合った人にこっそり話をして、一社ずつ採用活動をしている会社を紹介してもらい面接をお願いするといった細々とした活動をしていくのでした。転職活動中のお話については興味深いのですが長くなりそうなので、別ブログ記事ででも語れればと思います

学べたことはいっぱいある

研究職として新たなプロダクトを仕入れつつも、様々な理由で通年に渡って自分の提案するプロダクトが入れられなかったのは、私の戦略ミスも大きかったと思いますし、会社が保守的なプロダクトを柱コンテンツに据えていて、多くの物事がその延長線上で考えられていたこともあったでしょう。まぁほぼ全ては私の戦略ミスでしょう

「危ない事は一切させてもらえなかった」というわけでなく、世間でよく知られたmemcachedやTwiggyが「素性の知らないサーバとして受け入れられない」という無念な理由で導入を拒否された割に、Apache mod_perl を worker MPMで動作させて Perl の ithreads で変数共有といったような、他のPerlハッカーが聞いたら危険すぎて断固拒絶するような危険極まりないことも逆にやることになりました。私も当初反対したのですが、Twiggyを却下された上に結果的にそれしか方法がないと上司に説得をされ、その設計をすることになり商用環境に投入されました。動かなくてクレームが来ても困るというスタンスでしたが、結果的に動作したので面白い経験をさせていただきました。それはYAPCのネタにも結実したわけです。そういう普通の会社では縛りと言われるものが結果的にApache mod_perlを極めるきっかけになったのは興味深いです。

2003年まで、尊敬する先輩方が、当時では先進的な様々なものを投入した時代が移り変わり、当時の先輩方がPerl CGIの高速化の意味で「mod_perlを知らないと…」と言った発言を真に受けて、洋書のmod_perlの書籍を何冊も熟読して、最終的にApache httpd serverで任意のTCPサーバを書くまで至るとは思いませんでした。2011年から始めたコミュニティ活動のネタとして、そしてYAPC::Asia Tokyoでのネタとして結実するとは、先輩方がmod_perlが…と言っている太古の昔の私は、全く想像していなかったことです。

また、新しいことが何もできなかったわけではなく、在職中盤あたりに後輩達と携わったECサイトではCatalystのような自社フレームワーク自体のメンテナンスを担当させていただき、そこでも勉強したてのmod_perlの知識が大いに役に立ちました。サイトの最後のほうでは、Catalystのソースコードを読んで、そこからパクッてくるという事もよく行っていました。ウェブアプリケーションフレームワークというものでコードを書くという機会がほとんどなかったのにもかかわらず、それ自体のコードリーディングやメンテナンスをするといった良い機会となりました。

粘り強く新しいものを社内から広めていくという方策も、うまくいった部分もあれば、私の戦略ミスで軋轢を生んだ部分もあって、成果半分、反省半分といった感じです。AnyEventが有用であることを社内IRCボットなどを通じて社内に対してアピールできましたが、反面社内サーバで勝手にperlbrew環境を構築したことで平謝りをしたこともありました。正直言えば、「普通の会社」が「普通にやっていること」ができないことで大いに苛立った事は確かです。ただ、今ではAnyEventも(たぶん社内で)受容され、インフラ系部署が拠り所とする「原則的にDebian stableのパッケージのみを使った開発をせよ」という部分で、Debian stableがPlackやMojoliciousをdebパッケージに取り込んでくれたおかげで、社内ツールからようやくMojoliciousによる新規ウェブアプリケーション開発ができるまで開拓することができつつあります。

当時の不安定なPOEでネガティブな印象が沈着していたPerlによるデーモン開発も、Debian stableに入ったAnyEventが有用であるということも分かり、PlackやMojoliciousでの開発ができるまでになった。私だけの成果だけでなく、数年前に一人入った優秀な後輩の力も大きいですが、これだけでも最近の成果として充実したものだったなと思う次第です。

Debian stableにはまだ日本由来の多くのPerlパッケージが入っていません。なので、TengやAmon2やStarmanやStarletを使った開発ができず、ORMは独自でそれっぽいものを書いて、デプロイ先のHTTPサーバはmod_perl (Plack::Handler::Apache2) によるものであることはしばらくは変わらないものの、開発フローはだいぶ「普通の会社」に近づいたと自負しています。残念ながらまだperlbrewやplenv、またcpanmは商用環境では使えません。とはいえ、AnyEventによるデーモンも安定していることが認知され、dbjアレルギーでdaemontoolsが使えなくても、今後はDebian stableにも入ったsupervisorによるデーモン管理など、「普通の会社」の「普通の開発」ができていくのではないか、残された後輩に期待しつつ、多少満足しつつ私は会社を去ることにしました。今後はDebian Developerを目指し、fonfunのためにDebian stableに日本由来のPerlパッケージのdebパッケージを多く公式パッケージに入れていく事に尽力していきたいと考えています。そうすることで、最近ユーザ数が増えているUbuntuなどのDebian由来のディストリビューションでも「システムPerl」の活用が結果的にしやすくなるのではと夢見ています。Ubuntuをサーバとして採用する会社もあると聞きます。結果的に多くの会社や個人にメリットがあるコミュニティ活動ができれば本望です。

コミュニティ活動との両輪と研究職的ポジション

以前の後輩達により待遇改善と研究職であるという肩書きが増え、2011年くらいから研究職的ポジションに立って業務を行い試行錯誤したことは前述の通りです。

とはいえ何もかも上手くいったかといえばそうではありませんでした。これも私の戦略ミスである部分が大きいのですが、コミュニティ活動と研究職的ポジションを相乗効果として両輪回すことができなかったという反省点があります。

コミュニティ活動で得た有用なプロダクトを入れようにも、他部署との交渉の段階で「普通の会社」が行っていることができないということが多くありました。私の交渉力不足や説得力不足もありますし、結局は私が10年平社員でしかないということもあったでしょう。他部署の部長級・課長級の人に断られたら太刀打ちできませんから。多くの会社が導入をして、有用な成果を上げているミドルウェアなどが導入できなかった事を私の力不足に帰してしまうのは無責任ではありますが、他人のせいにするわけにもいかず、結果論的にそう論じざるを得ない部分が大きいです。

そういう部分も、粘り強く打開して、上述のように「普通の会社」が「普通にやっている」ことができつつあります。今後、残された一人の優秀な後輩と、これから入社するまだ見ぬ優秀なエンジニアには非常に期待しています

また、社名で検索しても2代目社長のおかげで「上場廃止」とか忌まわしきキーワードばかりがサジェストされる検索エンジン、なんとかしたいと社名のイメージアップのためにYAPC::Asia Tokyoへのスポンサードや、私自身が社名を引っさげてプレゼンテーションをしたりといった、コミュニティとの接点を持って「社名のブランド化」を進めたりしましたが、これは上司から聞いた話では社内であまり好評を得ていなかったそうです。事情は伏せますが、これも私の戦略ミスが大きく、現在も大いに反省しています。また、YAPC経由でエンジニアを採用すれば人売りに払う余計な手数料が要らないという謳い文句をしていたのですが、結果的に「YAPC経由で来るようなスキルの保持者に見合う年俸が払えない」という理由で何とかナビを使っているのを知ったときのショックは相当大きかったですね…。既に人売りアレルギーを発症していたので、その時はもう膝から崩れる寸前でした。優秀な人をそれに見合った年俸で雇用して好循環を回せるような会社になってほしいと、外部から微力ながらも応援していきたいです。

エンジニアとしての立ち位置

ECサイトなどで会社が盛り上がっていた時代のエンジニアの後輩達によって、私の待遇改善が図られたことは前述の通りです。給与的な部分には跳ね返らなかったのですが、私が希望していた「新しいことを切り開いていく仕事」というのを自由にやらせていただくことができました。これは上司の意向とも一致した部分であり、会社に感謝している部分でもあります。

反面、それらの知識を実戦投入することがほぼできなかったことは、数年の私の経歴にあまりよい影響を与えなかったという後悔はあります。個人やコミュニティで開発したものはありますが、会社だからこそできる中規模開発運用というものが何年もできなかったのは大きな損失でした。

繰り返しになりますが、結果的に「新しいものを取り入れる研究職的ポジション」という与えていただいた立場と、様々な事情により「新しいものが取り入れられない環境」というはざまで大いに苦しんだことは事実です。これだけではありませんが、結果的にこれが積もり積もった退職理由の主要な要因の一つとなりました。

入社時、もともと私はPerlも知らず、MSX BASICとC言語を少し書いただけのある大学院生でした。大学院でサーバ管理者を体験させてもらった経験を生かしてインフラエンジニアになろうとしていたのですが、そんな知識は当時の先輩方の前では大した知識でもなく使ってもらえず、ひょんなことからPerlを書きはじめてウェブプログラマとなったのでした。現在、多くの会社ではAWSなどの存在でインフラエンジニアとの境界線はなくなりつつありますが、今までの体験を活かして、プログラマが動きやすいインフラエンジニアという先祖帰りした立ち位置でも今後仕事をしたいと思っています。

社員の利益、会社の利益

会社に属している以上、第一に考えるべきは会社の利益でしょう。「新しいものを試したい」ことが手段ではなく目的になってしまうアーリーアダプター的エンジニアにはならないように細心の注意をしたつもりです。

それでも、新しいものを全く試せないことは、オープン系ITプログラマである私にとっては大きな損失でもありました。これは給与的にではなくキャリア的にです。中には本当に「新しいもの」を導入することが正しい案件もありましたが、そこですら導入ができなかったことは悔やまれます。worker+ithreadsのmod_perl案件も、後から考えてTwiggy+デーモン管理ツールのほうが良かったかもしれないねというのは、それの設計を当時命じた上司と後に話をしたときの結果でした。とはいえこの場合は結果的にworker+ithreadsが貴重な経験になったことは確かです。人生何があるかわかりません。

平社員がどこまで会社に貢献できるか

役職に特にこだわりは無かったのですが、結果的に約10年ずっと平社員でした。名刺に書いてあった「ソフトウェアアーキテクト」というのは肩書きであって役職ではないのです。

後から入社した人が続々と係長や課長になり、結果的に議論の場で平社員が不利になるということを何度か感じました。上司には「年齢も在職年数も上のほうが圧倒的に威圧感がある」と言われましたが、私はそんなことは全く感じませんでした。20人(公開情報)の会社なのに、なんでこんなにも役職があって、そして約10年在職した私が平社員なんだろう…と何度も考えました。それはひとえに、新しいミドルウェアを導入して新しい製品を作り会社を豊かにしたいという議論がほとんど通らなかったからです。

「正しいことをしたければ偉くなれ」とはよく言ったものですが、フラットな組織を理想として、幅広く多くの意見を言い続けたことは事実です。そんな中で受け入れられない事柄がほとんどで、それは裏をかえせば「うるさいことをいう人間」という印象を与えてしまったのでしょう。私の戦略ミスです。いやらしい話になりますが、昇格チャンスも同時に逃していたことでしょう。

私が入社した2003年はインフラエンジニアとプログラマが不可分な状態で、そしてその部署は会社の中で超がつくほど最強の権力を有していました。2003年にペーペーで入社しその部署に配属された私は、他部署の物言えぬ人の窓口となり、その活動が会社のためになってきたと自負しています。

ただ、その後、様々な出来事が重なってインフラエンジニアとプログラマが分化し、そして徐々にコミュニケーションロスが発生し始めます。これはDevOpsという言葉などで、世間のIT企業でも同じ道を歩み、そして今ではAWSなどの台頭でインフラエンジニアがプログラマ側に徐々に職能をシフトしているという傾向です。直近では私が社内で合同部会などを主催することで溝を埋めることに執心していましたが、結果としては成果半分といった程度でした。

当時のような結果的に閉じた部署にしたくないと、私が先導してプログラマ部署は心を開いて色々な雑用を引き受けたことで、多くの部署と仲良くなれましたが、結果的に部署間ヒエラルキーとしてあまり良い位置に立てなかったように思えます。まぁこれこそが私の戦略ミスですね…。そもそも20人いる社員のうち、プログラマー部署は片手で余裕で数えるくらいしか人がいなかった。権力を持ちたいとかそういうわけではないですが、私が考えている理想像を実現するための権力以前の発言力すらなかったのは事実だったと思います。他の部署はどうだったでしょう…。考えることは建設的ではないので、これは考えないことにします。

2012年に入社して、私がやっていた仕事を一手に引き受けることとなった優秀な後輩は、黙々と仕事をこなすタイプの人で、そういうことを一切考えないのは良い傾向だと思います。与えられた事を、その場で使える技術でどうこなすか、それだけをじっくり考えて仕事が出来る後輩のような人・立場であれば良い仕事環境だったことでしょう。私がこの会社で研究職的ポジションに就いたことは終わりの始まりだったように感じます。ただ、コミュニティ活動で視野を広げて、今に繋がる「mod_perlと言えば@xtetsuji」といった外部でのセルフブランディングが出来るまでになったことは、心底良かったと思っています。会社というか上司にもそれを支援していただいたことは感謝しています。私の人生という視点に立って、もっと良い選択肢はあったと思いますが、その時に出来る選択で結果的に大きく間違ったことはしていなかったはずです。

ここでの話は、プログラマー部署で研究職的立場である私が現時点のオープン系ITプログラミング業界における「普通のこと」をやろうと苦心した特殊な立場の話だということです。全く一般論ではありません。この会社に入社する・在籍している他の職種の平社員や役職者が、この会社で与えられたことを工夫して取り組むことは、会社の構成員として自然と会社のためになるはずです。そこについて、これを読んで他の立場の人が不安がる必要はないと思います。

ずっと考えていた人生設計

もともと、私の人生の転機は6年ごとに起こっていて(小学校入学まで、小学生、中学高校、大学大学院)、入った頃から出入りの激しいIT業界、長くても6年で次の会社かなーと思っていたら10年経っていたという状況でした。

最近では陳腐な都市伝説となってしまったものの「プログラマ35歳定年説」なんてものがありますが、35歳はある意味人生の転機となる年齢です。プログラマは35歳で定年せずとも済むようになったものの、面接時の人事は35歳を一種の境界線として扱うのはどの業種でも同様のようです。よっぽど優れた有名人などであれば別でしょうが…。

このIT業界は人の入れ替わりが激しい業界です。それだけ多くの企業間が引き抜き合戦を行っているわけで、それがゆえに各企業のノウハウが良い意味で流動化しているのかもしれません。人によっては「退職エントリや転職エントリを検索して全く何も出てこない会社こそヤバイ」という人もいます。また3年未満で職を渡り歩く真の「ジョブホッパー」のような人はさすがにこの業界でもあまり良い印象を与えませんが、私のように10年も同じ会社に居続けると「その会社のやり方でしか仕事ができない人」と思われるとも多くの人に言われました。IT業界、よほど愛着があって在職していることで会社と自分に相乗効果がある場合を除いて、6年くらいで一度立ち位置を見直してみることは大切なのかもしれません(これは闇雲に転職を勧めている意見ではありません)。

また私は、いつかは地元、できれば北海道のどこかに帰りたいとも考えています。ただ今はまだその時期ではない、東京でもっと刺激を受けて勉強する時期だとも思っていますが、そうであればもっと別の会社を経験するべきだとも思っていました。そんな中での2013年転職活動となりました。

次に働く場所も東京になる予定ですが、あと10年くらいは東京で修行しながら、その後北海道でも働けるよう自分自身も周辺事情も開拓していこうと考えています。

退職の理由

立ち位置のギャップ、社内での戦略ミス、キャリア上の戦略、人生設計上の流れ…。上記でも様々な理由らしきものがあがりましたが、どれも決定的な退職理由ではありませんでした。何しろ最近は「逃げたい」と思ったことが無かった。ただ徐々に働きづらくなったなという居心地の悪さは感じていました。これは全社的な職種全般の事では当然無く、私の立ち位置から見た感想でした。

総論を言ってしまうと文字では誤解を招きそうなので、これについての総論については別の場所で直にお会いしたときに話させてください。ちょうど #xtnight というイベントもあります。また今後も色々な勉強会に参加させていただく予定です。興味のある方には、その時にでもお話させていただければと思います。

まとめ

長文を書いてきて、まとまらない感じではありますが、私が10年間で得た体系的といえる知識はPerlくらいしかなく、私の年齢ともなると会社から勉強をするだけでなく会社へ具体的かつ迅速な貢献を求められることになります。当然ながら、次もPerlという武器を主軸として活動しつつ、今までできなかった分野への仕事へと広がりを持たせたいと考えています。

外向きの私の活動は、2011年からのコミュニティ活動からあまり変わらないと思います。むしろ、より「普通の会社」がやっている「普通のこと」や「普通の開発」の話が増えていくかもしれません。とはいえ、せっかく得たmod_perlの知識の火も絶やすことなく、継続的に研究していきます。ご期待ください。

若い優秀な人達が台頭する中、年齢の割にはまだまだ未熟ではありますが、これからもオープン系ITプログラマとして、どうぞよろしくお願いします。

iPhoneユーザも納得のNexus 5

おがた (@xtetsuji) です。

2013年の年末にGoogleが発売(LGが製造)したNexus 5を購入しました。16GBモデルをGoogle直販から直接購入しました。年末発注だったので、実家で受け取ることにしました。

購入から受け取りまで

実家の住所を日本語で書いたのですが、発送はシンガポールかどこかからだったらしく、Googleお得意(?)の機械翻訳で住所が超訳されており、ヤマト運輸の配達員の方が迷ったという話があります。市区町村の部分までは辞書があったのかうまく訳せていたんですけどねぇ。

実際にグレア液晶が目にきつかったのでアンチグレアフィルムを調達しに地元の電気屋まで行ったのですが、無かったのでAmazonで発注して、実際に本格的に使い始めたのが帰省から戻った2014年1月からとなりました。

触ってみて最初の感想

受け取って触ってみて思ったのは視野角が広いということ。視野角が広い!これに勝るものはありません。iPhoneも視野角が広いから愛用しているようなものです。国産Androidガラパゴススマホや中華パッドを使っていると、視野角が極悪に悪いものがあって、目が疲れて一週間も耐えられないことがあります。かくいう私もAndroid端末として国産メガネケース中華パッドに投資をしたことがありますが、視野角が狭すぎて一週間程度で投げ捨てた過去があります。視野角の広さ大事。それはOSがAndroidかどうかに関わりません。

重要なことなので何度もいいます。視野角大事。液晶ディスプレイやノートパソコンを買うときにも、ディスプレイを真横に近いところから見て画面の内容が視認できない、もしくは目がひどく疲れるものは絶対に買うべきではありません。それはあなたの視力を知らず知らずのうちに奪う悪魔の品です。

iPhoneとAndroid、そして他のスマートフォンOS

iPhone 3G時代からの生粋のiPhoneユーザなので、よくAndroidは嫌いなのかと聞かれることがあるのですが、そういうわけではありません。でなければ国産メガネケースや中華パッドに投資するわけない。多様なOSを体験したいというのはIT業界に居るものとして当然の感想です。

半年くらいまえになると思いますが、Firefox OS勉強会にも行ってFirefox OS端末をいち早く触らせてもらいました。Firefox OS はネイティブアプリを作るのも全てJavaScriptという徹底ぶりなのですが、それでもOS側のチューニングがしっかりしていて、Firefox OSにとても好感を覚えました

Firefox OSとTizen OSは、日本ではKDDI vs docomoという構図となっていますが、どちらのOSもコンセプトとしてはJavaScriptでネイティブアプリを書くというHTML5指向になっている部分もあり、iOSのObjective-CやAndroidのJavaといった未開の勉強までは必要ないというのが、ウェブ開発者視点での印象です。どちらのOSも楽しみですね。

…と、ここまで語ってきましたが、私はWindows Phoneという物の存在を絶対に許しません。あれがWindows CEと呼ばれた頃から、当時学生で貧乏だった私は未来を夢見ていくつものWindows CEマシンに投資をし、そしてがっかりするということを繰り返してきました。iPhone 3Gが出たときにスティーブ・バルマーは「Windows CEには100万本以上のソフトウェア資産がある」とiPhoneとAppleに嘲笑めいた喧嘩を売ったにも関わらず、その後すぐWindows CEとバイナリ互換を一切切り捨てたWindows Phoneなどというものを出してきました。その時の私の怒りはここでは書ききれません。スティーブ・バルマーは全世界を巡業して焼き土下座をしなければ許されない大罪を何度も犯しています。絶対に許さん!!!

MicrosoftとWindows自体がもうダメかと言われたらそうでもありません。私がMicrosoftにアドバイスするのであれば、Windows Phoneなんてものを作る暇があるのであれば、デスクトップOSとしてデファクトスタンダードとなっているWindows OSのカーネルをマイクロカーネル化して、Windowsのソフトも動かそうと思えば動かせる、そんなタブレットやスマートフォンを作ればよいのにと思うのです。Windows 8は今も現在進行形で多くの人々から非難を浴び続けています。古きよきWindowsをよくブラッシュアップできたWindows 7に立ち返り、それを継承したWindows 9を作り、それをマイクロカーネル化したモバイルOSを作れば、多くのビジネスマンに支持されることとなるのではないかと感じます。タッチインターフェースが必要だからWindows 8が生まれたのだという指摘もありますが、タッチインターフェースでWindows 8が成功しているとは到底思えません。もっとよい解決策があるはずです。それを考えてWindows 9に結実させることこそ、Windows Phoneを作るよりも先にMicrosoftが行うことではないでしょうか。

あと、Nexus 5が非常によい出来であることと対照的に、国産Android端末は高価で高機能な割に、使い勝手が直感的ではないという残念な傾向にあると思います。高機能ゆえに電池消費も早いという傾向があるようで、富士通やNECのAndroid端末を使っている人達は自分の端末の悪口を延々と言い続けるという面白い風景を何度も見てきました。当時からSoftbankのiPhoneユーザの私が「じゃぁiPhoneにしなよ…」というと「ドコモから出てないから…」という構図。今やドコモからもiPhoneが登場した今、あのときのみなさんはどうしていることでしょうか。

ソニエリやシャープはまだ良いほうのようです。IGZOの省電力などがあるのでしょうか。シャープのファンである私は、もし端末価格と維持費が安ければAQUOS Phoneも欲しいところではあるのですが、主にドコモの維持費がネックで踏みきれません。ちなみに私はドコモのガラケー(SH906i)ユーザでもあります。ガラケーは維持費が安くて助かります。

iPhoneと使い分けてみて思ったNexus 5の良さ

まず、Nexus 5のために以下のようなものを買いました。

とりあえずグレア液晶が目にきつかったので、アンチグレアフィルムは即発注。Qi対応ということもあって、興味深かったのと案外安かったのでワイヤレス充電パッドも購入。そして今まで使っていたBluetoothヘッドフォンがBluetooth2.0時代の古いものだったので、これを期にBluetooth 4.0対応の良いものを購入しました。あと、SIMロックフリーだったのと、都度iPhoneのテザリングで接続するのは面倒だなと、月480円で維持できる150kbpsのServerMan SIMを購入しました。速度的にはストリーミング動画を観たりしなければこれでも十分。どれも良い買い物でした。

ちなみにNexus 5の色は黒を買いました。白と黒があるという選択肢を全然知らなくて、そのまま黒を買ってしまった感じ。とはいえ、選べと言われても黒を買っていたと思います。

Nexus 5のホーム画面、こんな感じになっています。

Nexus 5 ホーム1 Nexus 5 ホーム2

 

なるべく普段使っているiPhoneのホーム画面に似せてみたというのと、iPhoneでいいだけゲームを入れて飽きているので、ゲームは一切入れなかったということでしょうか。あと音楽や動画の類もiPhone 5 64GBのほうにだけ入れています。内臓ストレージ容量も16GBなので、あまり欲張ってソフトウェアを入れても、すぐに限界が来るからこれくらいがちょうどよいのかもしれません。少なくともしばらくは、iPhone 5メイン、Nexus 5サブという状態が続くでしょう。

iPhoneはiTunesにロックオンされるから良くないというAndroid派の意見を聞きますが、私は結構iTunesを気に入っているので、これに関しては良いと思っています。逆にAndroidではiTunesやiTunes Storeのような中央集権的なメディアストアがない(実際はGoogle Play ***がありますが…)ところは、サードパーティ製の楽曲配信サービスが入り込む余地があって興味深いと思います。

iPhoneというかiOSではできなくてAndroidではできるということは結構あります。これは結構魅力的です。Nexus 5を1ヶ月弱使っていて気がついたものをいくつか挙げてみます。

  • ソフトウェア常駐時間(iOS6で10分、iOS7で3分)の制限がない
  • 通知欄がiOSより高機能
  • ウィジェットの存在
  • Google NowがOSネイティブ
  • ファイルという概念と、共有の自由さ
  • Wi-Fiのスニファが出来る

iPhoneでもIRCソフトLimeChatやクリップボード監視ソフトなどを使っていましたが、どうしてもソフトウェア常駐時間の制限が使い勝手のネックでした。AndroidではYaaicというIRCソフトウェアを使っていますが、常駐時間の制限も無く、その点ではとても使い勝手が良いソフトウェアです。ただ、iOSの常駐時間制限も電池消費を抑えるために設けられているわけで、Androidで常駐ソフトウェアをむやみに増やす事は、結果的に自分の首を締めることになるという「自己責任」があるのでしょう。「自由」と「自己責任」は表裏一体です。

通知欄が高機能であることと、ウィジェットの存在は、iOSから見たら一目瞭然の高機能さでありましょう。これについても電池消費の話がついてまわりますので「自由」のために「自己責任」をどこまでおうか、それはAndroidユーザ各人が考えるべきことなのでしょう。

Nexus 5は、現時点で一番新しいAndroid OS KitKat (4.4) を搭載していますが、Google NowがOSネイティブで入っているというのはなかなか便利だなと思いました。SIMを刺してどこかに行くと、Google Nowのカードが今いる最寄り駅から自宅に帰る最短ルートをサジェストしてくれる。iOSにもGoogleアプリがあって、Nowを擬似的に使うことができますが、それはアプリをいちいち起動しないといけないわけで、この機能は非常に便利だなと感じました。まぁ電池消費の話は繰り返されるわけですが…。

iOSにはファイルという概念は実質的に無い(隠蔽されている)のですが、Androidにはファイルという概念が存在して任意のファイルを「ダウンロード」することがOSとして可能です。また、共有という概念もiOSに比べて自由です。

例えば両OSのChromeで「共有」を選んだ画面を見てみると、メニューの項目が全く違います。

iOSで情報をアプリ間で受け渡しするとかは、URLスキームに頼ったりOpen-Inという手法もありますが、Androidほどの自由さはないでしょう。逆にiOSが制限があるゆえ、コンピュータウィルスへの危険が少なかったり、制限下で目的を達成しようとMyScriptsなどのアプリで頑張ったりといった、また別の良い部分や楽しさがあることも事実です

これは個々の事例になるのですが、iOS6あたりで、AppleがWi-Fiをスニファするアプリを禁止してしまった経緯があります。この方針変更で、iPhoneでWi-Fiの強度であるとかチャンネルの干渉などを調べるアプリが軒並みAppStoreから無くなってしまいました。Apple側でもWi-FiスニファはAirCrack系アプリなどの悪用の危険性があるという判断からそういう経緯に至ったのでしょうが、結構私的には不便でした。Androidにはそのような制限がないので、私はNexus 5を手にとってまず入れたのは「WiFi Analyzer」というソフトでした。最近では街中でこれを起動して電波の干渉などを見ながら「Wi-Fiスポット増えたなぁ」とか思っています。

初心者にすすめるのはどっち?

では初心者にすすめるならどっちかと言われると、2014年現在であれば間違いなくiPhoneでしょう。Androidと一口に言っても、国産ガラパゴススマホから中華パッド、そしてNexus 5のような良品まで様々です。要件に「ワンセグとおサイフケータイ」と言われた時点で選択肢はガラケーか国産ガラパゴススマホになります。国産ガラパゴススマホ、使ってみると各社全く違う操作感で、往年のガラケーより混乱を招くんじゃないか…とすら思えます。同じAndroid OSとはいえ、メーカーAのユーザとメーカーBのユーザがいても、互いに情報共有しあえない状況では、ちょっと…という感じすらあります。

またiPhoneであれば身近に使っている人が多いということはあるでしょう。身近に質問できる人がいるというのはあらゆる物事で結構重要なことです。iPhoneであれば、OSがバージョンアップしたときの操作性もそれほど変わらず、iOSであればiPhoneとiPadでそれほど違いがないというのもあるでしょう。Androidはそうはいかないのではないかというのが私見です。

先ほどAndroidは「自由」と「自己責任」であると言いました。それと対比すればiPhone/iOSは「制限」と「ユーザ保護」と言えましょう。自己責任が取れて自由を安全に謳歌できる人ならよいのですが、全ての人がそうとはいえないでしょう。特に誰かに「iPhoneとAndroidどっちがよい?」と質問するひとであればなおさら。そうであれば、私の代わりにその人を保護してくれるOSのほうを選択してあげたいという気持ちがあります。iOSは制限は多いですが、一時期ほど気になるものではありません。またプッシュ通知(APNS)など、Androidより不自由な通知ではあるものの電池消費を最小限にする仕組みなど、そのユーザ保護は枚挙にいとまがありません。iTunesの存在も選択する一つの要素でしょう。

また、iPhoneのOSバージョンアップサイクルが長いというのも選択肢の一つでしょう。そういう質問をしてくる人は、たいがいレイトマジョリティで、買ったものを長く使う傾向にあります。アーリーアダプターとは違って、頻繁に機種を買い換えない。そうであれば、平均1回のOSバージョンアップで切り捨てられるAndroid端末よりも、何回もOSバージョンアップができる実績のあるiOS/iPhoneを選んだほうがよいという考えです。

あと、iPhoneは安い。これはケータイ事業者3社にAppleから販売通達が厳しく課せられていて、そのために販売奨励金がジャブジャブ投入されているからというAndroid派からの指摘は正解なのですが、消費者側から見たら安いに越したことはないでしょう。

決してこれらは、Androidが悪いから勧めないというわけではありません。そういう質問をしてくる人が大抵はアーリーアダプターとは対局の位置にいる人で、そういう人にはAndroidよりもiPhoneのほうが向く傾向にあるだろう、というだけにすぎません。その人がガラケーのヘビーユーザで1年未満でガラケーを買い換える傾向にある人であれば、また指標が変わってくるでしょう。

まとめ

端末価格も安く、維持費もゼロか低く抑えられ、なおかつKitKatをいち早く体験できるNexus 5は、たとえ国産ガラパゴススマホが対応しているようなワンセグやおサイフケータイが無くても、十分魅力的なAndroid端末です。iPhoneを持っている層も、お金に余裕があるのであれば、買って損はない端末、新たな良い体験ができる端末だと思えます。ぜひ御一考してみてください。

日本語のperldocを検索する便利なショートカット

おがた (@xtetsuji) です。

Perlの良い点は、コンソールで perldoc コマンドを使うことで、オフラインでも迅速に組み込み関数やモジュールのドキュメントを見ることができることです。そしてそこに書いてあるSYNOPSISを真似ればとりあえずモジュールが使えるという点。この仕組みはPerlの長い歴史の中でずっと続いている良い点だと思います。

でも出てくるドキュメントはたいてい英語なんですよね。Perlを10年書いてきてPerlのドキュメントの英語に慣れたとはいえ、時々は日本語で読みたいもの。PHPやRubyはどうなんだろうと調べてみると、だいたいはウェブ上に日本語ドキュメントがあって、それを閲覧する形のようです。

Perlにもperldoc.jpという日本語perldocが読めるサイトがあります。

このサイト、パスの最初に組み込み関数やプラグマやモジュール名を入れると、それが存在すれば適切なパスにリダイレクトをしてくれるという嬉しい機能があります。

FirefoxやGoogle Chromeなどのアドレスバーや検索ボックス(オムニボックス)でURLにキーワードを渡して検索ができる機能があるブラウザの場合、これを利用してperldoc.jpのドキュメントを素早く検索することができます。

Google Chromeの場合はアドレスバー(オムニボックス)に chrome://settings/search と入力して設定画面を開き「検索エンジンの管理」というボタンを押します。右上の設定検索を利用すると楽でしょう。

この次に一番下にある「新しい検索エンジンを追加」で

  • 新しい検索エンジンを追加: perldoc.jp
  • キーワード: perldocjp (ここはお好きなキーワードで)
  • 検索キーワードの代わりに…: http://perldoc.jp/%s

と設定して追加をします。%s 部分に検索キーワードが入るという感じです。これはFirefoxでも同様です。

こうすることで、検索エンジンとして設定したキーワードをアドレスバー(オムニボックス)に入れた後にスペースかタブを押すと、検索キーワードの入力を促されます。例えば「LWP::UserAgent」と入力してLWP::UserAgentの日本語ドキュメントが表示されたら成功です。

perldoc.jpが単純な仕組みで検索結果を表示してくれるので、コマンドラインアプリケーションからURLを構築して、CUIやGUIのブラウザで検索結果を表示するということも簡単にできるでしょう。色々と応用が可能です。

これで便利な日本語perldocライフが過ごせますね。

2013年12月に胃潰瘍で入院をした時の振り返り

おがた (@xtetsuji) です。

以前のブログエントリでもお伝えしましたが、2013年12月11日から12月24日までの約2週間、胃潰瘍で緊急入院をすることになりました。

ここでは、胃潰瘍で数週間入院した人目線で、気がついたことや気をつけておくべきことなどを書いていきたいと思います。

入院患者の人間観察については別ブログの別記事に書こうかなと思って書きました

また、Twitterで同報通信(結果的に実況)していた入院と胃潰瘍関連のツイートをTogetterでまとめました

いちおうお約束ですが、このブログ記事は読者の皆さんへ最適な医療情報を提供するものではありません。身体の異変に気づいたらすぐ病院に行きましょう!

胃潰瘍いろいろ

ウェブを検索してみると、胃潰瘍といっても色々な症状があります。軽症のものであれば自分で薬を飲んでどうこうするものから、重症のものであれば症状が分かった途端に緊急入院をするものまで。私はどちらかというと後者のほうでした。

12月11日の午前中、「先週(5日前)から大便の色がオカシイから、静岡に行く前にちょっと病院に行って薬でももらってくるか」と気軽に考えて、胃が痛いとかの自覚症状は全然無かったのですが、自宅近所の内科・胃腸科の病院に行ってきました。 そうしたらそこの病院の先生が「これは胃カメラ検査が必要」といって、午後の診療時間に来るように言われたので、それに従って午後にまた来ることになりました。静岡の用事は夜からだったので、まぁなんとかなるとその時は思っていました。

そして午後通院。胃カメラ前の薬や注射などの「儀式」を済ませたあと、口から胃カメラを飲んで苦しい思いをして分かったことは胃の中が血の海で先生もビックリするほどだったということでした。

最初の通院から緊急搬送まで

とりあえず私は先生に聞きます。

  • 私「このあと静岡に行けるんでしょうか」
  • 先生「行けないよ。このままだと新幹線の中で吐血して倒れるよ」
  • 私「じゃぁどこに行けばいいでしょうか」
  • 先生「すぐ入院だよ」
  • 私「はい…。えっと入院先へはどう行けば…」
  • 先生「いま紹介状書いているから。救急車呼ぶから待ってて」

といったやりとりがあって、救急車がやってきました。あとはストレッチャーに乗せられて搬送先の病院のベッドまで横になって運ばれることになりました。意識がある状態で救急車で搬送されたの、人生初かもしれない。意識を失った状態で運ばれたことはタクシーとの交通事故で一度はありましたが…。

急性の胃潰瘍で出血多量だと、出血性ショックの類があるらしく、死の危険がある場合もあるとか。ちょっとこれは大げさだなあと思いながら搬送されていましたが、後で調べてみて妥当な処置だったんだなと思わされました。

とはいえ、入院施設の病院でも立て続けに胃カメラを飲むことになって、どちらかというと、この連続胃カメラで大いに体力が削られました。

胃カメラ体験談

最初の「近所の胃腸科の病院」では口から胃カメラを入れられました。これは嘔吐反応が結構あって苦しかったです。口からの場合は、ダイレクトに喉にケーブルが触れるわけで、麻酔をしていても嘔吐反応は出てしまいがちなようです。

次の「入院先の病院」では鼻から胃カメラを入れられました。最初「鼻から」というキーワードにギョッとしましたが、嘔吐反応は口からよりも少ないということは分かりました。…が、つらいことにあまり変わりありませんでした。これは人によっても差があって、胃カメラが全く苦痛ではない人もいれば、口からはダメだけど鼻からなら大丈夫という人もいるらしいです。

私は「入院先の病院」で鼻からの胃カメラを計4回行いましたが、行うごとにコツのようなものがつかめてきました。まずは唾液を飲まないで全部口から出すということ。鼻から胃カメラの場合は口が自由で、器用な人は会話もできるということですが、会話をすると喉や食道が震えるので胃カメラのケーブルに触れて苦しい思いをすることがあります。少なくとも私はそうでした。会話をせずとも唾液は出るわけで、これを飲むと喉と食道が唾液を胃へ運ぼうと動作を行うわけで、鼻から入れた胃カメラのケーブルに触れて苦しい思いをするということのようです。どのような体勢で胃カメラを入れられるかは病院によって変わってくるとは思いますが、唾液を飲まないで出せるようにしてもらうことで、多少は鼻から胃カメラの苦痛は回避できると思います。

もっとも、検査が進むごとに胃の中の血の量が減ってきて患部がどこかわかってくるので、胃カメラを入れられている時間が少なくなって楽になっていったということもありました。最初の入院先の病院での鼻からの胃カメラ、長く感じるつらい時間を差し引いても20分くらい入れられていた気がします。それは胃の中が血の海で患部を探すのに時間がかかっただけでなく、私の胃潰瘍が比較的珍しい場所に出来ていたからだということでした。

最初の病院で行った口からの胃カメラでは、胃の中が血の海になっていることの確認と、その血液の排出を行いました。また、同日の入院先の病院の1回目の胃カメラでは、血の海の中で患部を探すことを行いました。次の日の2回目の胃カメラでは患部の確認を行い、3回目の胃カメラでは前回確認した患部に止血剤を注射する(そんなことも胃カメラでできるんです!)ことを行い、4回目の胃カメラでは生体検査のため胃の一部を切り取られたようです。

生体検査は、胃潰瘍が胃がんでないことの確認として行うものだそうです。30代の私は胃がんではないだろうと言われていましたが、お約束なのでやるという感じでした。

胃カメラを多く経験している人に聞いたところ、コツは「麻酔」しかないそうです。世の中、麻酔をせずに胃カメラを入れる恐怖の病院があるそうで、それはもう地獄の所業なのだとか。私の場合は、時々嘔吐反応が出て苦しい、違和感があるくらいで、胃カメラ終了後も特に何もなかったので、麻酔はすごいんだなぁと思わされます。

口からの胃カメラの場合は喉に、鼻からの胃カメラの場合は鼻から、それぞれスプレーで麻酔をかけられます。どちらも結果的に胃カメラのケーブルが通る喉に麻酔をかけているとのことですが「こんなので麻酔かかるの?」っていうくらいのシュッと一吹きが胃カメラの苦痛を軽減させているというのですから、すごいものです。

胃潰瘍の患部、そして上部消化器・下部消化器の下血の傾向

後で説明を受けたのですが、多くの場合、胃潰瘍の患部は胃の真ん中もしくは胃の下の部分に出来るのだそうです。ただ、私の場合は胃の上部に患部があるようだということで、検査時間が長引いた要因の一つだったらしいです。胃の真ん中から下に患部があれば胃カメラを入れてすぐ見つかるし、血のたまり方も分かりやすいといえましょう。

また、胃の上部の潰瘍も、比較的小さな割には多く出血していたようで、胃の血管が走っているところに運悪く潰瘍ができてしまったのではないか、という話でした。

そんな、患部の場所が珍しいことと、出血量が多かったこともあって、最初の胃カメラが長引くことになったのでした。

上部消化器と呼ばれる胃や十二指腸からの出血の場合、胃酸によって黒い便が出るのと対照的に、下部消化器と呼ばれる小腸や大腸からの出血の場合、胃酸の影響をそれほど受けないので黒よりも赤に近い便が出るとのことです。直腸や痔の場合は鮮血に近い赤色の便が出るという区別を覚えておくと、どこからの出血なのか分かってよいと思います。

特に文字通り「タール便」と呼ばれるタールのような下痢状の黒い便が出た場合は、上部消化器からかなり出血していることが明白です。私はこれが金曜日から週末をまたいでも治らなかったので、胃の痛みなどの自覚症状は無かったものの、気になって胃腸科の病院に行ったのでした。その時は無知でしたが、からくりがわかればそれは即胃カメラ検査になるよなと思った次第です。

入院期間

2つの病院での1日2連続胃カメラも終わり、病室にストレッチャーで運ばれた後は、治療同意書などの書類にサインをしていくという流れ。サインをする他の付き添いの人とかいないわけなので、当然自分自身が書くことになります。

一泊二日の入院とかは何度か経験あるので、今回もせいぜい2〜3日で退院できるかなと思っていたら、入院期間の欄に「まずは7日」と書かれていて「え!そんなに?」と驚きました。胃潰瘍というよく聞く病気を気軽に考えすぎていました。

少なくとも3日は絶飲食、その後経過観察と食事療法でだいたい7日くらいかかるというのが相場のようです。私の場合は5日の絶飲食と、9日の食事療法で14日の入院となりました。胃潰瘍の程度や年齢にもよるようですが、貧血が収まらなかったり潰瘍からの出血が止まらない場合、もっと入院が長引く人もいるようです。

胃潰瘍を患って入院している人が何週間も入院していても、それは特に重い病気を隠しているわけではないことが普通、ということのようです。

床上安静と絶飲食

結構色々な方から聞かれたのは「24時間点滴で絶飲食はツライでしょう」ということ。ただ、連日の胃カメラの検査等のほうがツライし、そもそも私はあまり食に執着がない人だったので、私に限っては空腹がつらかったりすることはなかったです。むしろ、点滴や酸素や心電図や血圧など、24時間つながりっぱなしの管やケーブルの数々のほうが大変でした。床上安静(しょうじょうあんせい: ベッドから出られずベッドの上で安静にしていること)というか、そもそもベッドの上でも自由に動けやしない。

床上安静なので、その期間中は当然トイレもベッド上で済ませます。本来であれば尿のほうは尿道に管を通すとのことでしたが、私の場合はうまく入らなかったので、主治医判断で尿器(しびん)でしてくれ、とのことになりました。管が変に入ってしまうと痛い人もいるようです。同室の他の老人の患者さんがずっと痛がっていて、退院後に泌尿器科に直行ということになったようです。通常はスルッと入って問題無いらしいですけど。

しかしながら、ずっと横になっていると出るものも出ないので、尿は意識的に出さないとダメなのです。時々身体を起こして尿意をもよおすのを待つという生活をしていました。尿の量は管理されており、私の場合は24時間の点滴量から一日2.5リットル出ないと医師チェックが入るという感じでした。

便のほうは、ただでさえ身体は管とケーブルだらけなのに、ベッドの上でしづらいという感じでしたが、最初の病院に行く前から便の色が変でしばらく食事を控えていたのと、下痢を併発していたので、入院した時は既に腸の中はそれほど何もなかったようで、この点に関しては苦労はしませんでした。

院内歩行許可と流動食による食事療法の開始

私の場合は5日で絶飲食から解放され、身体に繋がっている管やケーブル類が減り、院内歩行許可が出て、流動食による食事療法が開始されました。心電図モニターのようなものも、据え置きの巨大なものから、電池式で持ち運べる弁当箱ほどのものになりました。

院内歩行許可が出たら、意識的に歩くことにしました。昼間の点滴と、小さな心電図モニターは身体に繋がっていますが、それでも以前に比べたら自由です。5日全く歩かないと、結構筋肉が落ちるものです。筋肉というよりも膝が結構弱っていました。

ストレッチャーで横になって運ばれたので、ここではじめて入院先の病院の構造を知ることになります。不思議な体験でした。また、シャンプー施設など興味深い設備を使わせてもらったり、貴重な体験ができました。談話室に出られて、ようやく母に電話で通話することで情報を伝えることができました。メールとTwitterではどうしても情報が断片的になってしまい、無用な心配を与えてしまいがちです。院内歩行ができるようになったことも含め、ここでようやく心配無用であることを伝えることができました。

流動食といっても、最初に出てくるのは三分粥と呼ばれるお湯同然のようなもの。写真はまとめに逐次アップしたので参照してみてください。私の場合、6食で五分粥になるというペースで、7食目から少し米粒が見えるようになってきました。そして退院間近になると全粥と呼ばれる普通の粥になっていくという流れ。おかずの類もそれに準じて完全流動食から徐々に固形物になっていき、胃を慣らしていくという流れでした。

薬や点滴等による治療が進んで元気が出てくると、自然と食欲も回復してきます。動き始めたこともあったと思います。食事自体は流動食ですが、それでも私にとっては新鮮でした。一週間ぶりに「塩味だ!」とか感じたり。普段の当たり前が当たり前で無くなった時、色々と新鮮な体験ができます。

楽しみの一つは水を飲むことでした。せっかくなので水道水ではなく、自動販売機で買ってきたミネラルウォーターを飲もうと、500mlのペットボトルを1日約2本のペースで消費していました。5日間の絶飲食で味覚も鋭くなっていたのか、水の味といったものも分かるようになっていました。

栄養士さんに色々と質問をした

病院の朝は早いです。私の入院先の病院は、6時起床、7時検査、8時朝食、9時回診、10時検査、といった感じ。たとえ同じ病室の他の患者のいびきで眠れなくても、6時には起床させられて午後にならないと「昼寝」できない感じでした。

回診時には主治医と看護師さんだけでなく、薬剤師さんや栄養士さんもやってきます。一度、栄養士さんに色々聞いてみようと時間を取ってもらって色々聞いてみました。主に退院後の食事について、一人暮らしでどうすればよいのかといった疑問点を解消しておきたかったからです。

基本的に、普段から摂り過ぎて身体に悪いと言われているものや、刺激物となるようなものがダメなのは想像通りでした。例えば:

  • 香辛料や辛いもの
  • 柑橘類
  • 繊維質なものなどの消化が大変なもの
  • 油が多く含まれているもの
  • 極端に冷たいもの
  • 炭酸飲料
  • アルコール
  • カフェイン

といったようなもの。

胃潰瘍の食事療法が終わって退院となっても、私の場合、1ヶ月以上は胃酸を抑える薬「パリエット」( ガスター10をさらに強力にしたようなやつ)を服用し続けなければならなくて、そもそも胃の消化能力が抑えられた状態であることもあるようです。

ただ、ことさらこれらの食品を避けろというわけではなく、様子を見て徐々に増やしていくように言われました。胃に負担のかからないものばかり食べていてもバランスの良い食事にはならないということのようです。

乳製品については、ヨーグルトや牛乳が院内食に出てきたりすることもあって、胃にも良いものだそうです。ただ加工品については注意するべきものもあって、バターやチーズといったものは摂り過ぎに注意してほしいとのことでした。私は牛乳で腹を下すことが多く、その分チーズを普段から多く食べていたので、それについては量を注意して欲しいと言われました。

食品については、食事療法や治療段階に関すること以外でも主治医に聞かれたことがあります。特定の食品が胃潰瘍の原因の一つになっていることがあるということでです。

胃潰瘍の原因

最初の病院の先生にも、入院先の病院の主治医にも聞かれたことは、胃潰瘍の原因となるようなことが何だったのかということでした。胃潰瘍は再発しやすい病気であることもあり、原因が何かを知っておく事は有益なのでしょう。

メモを取っている暇も無かったときに言われたことを思い出すと、主治医からは以下のような生活習慣が胃潰瘍の原因であると言われました。

  • 飲酒
  • 喫煙
  • 不規則な生活などの悪い生活習慣
  • ストレス
  • 冷え
  • 特定の食品

一人飲みもしないし飲み会も最近少ないし、飲酒という線は無いと思いました。タバコは超がつくほど嫌いだし受動喫煙すらも出来る限り拒絶するので、この線もないでしょう。夜型生活ではありますが、不規則な…といえるほどではないと思いました。

最近の仕事や私生活の話をしたところ、消去法でストレスが原因だと指摘されました。確かにメンタルが弱いのは自他共に認めるところです。あとまぁ、屋内で暑いし邪魔だしと外套を着ないで外に出る事が多かったので、寒さに強いといいつつ無意識に胃を冷やしていたのも良くなかったのかもしれません。

何度か主治医と話をして気になったのは、チョコレートが胃潰瘍を招くという話でした。私は甘いものが好きで、チョコレートを一時期結構食べていたのですが、これも胃潰瘍の遠因だったのかもしれません。食事が面倒だと、その辺にあるチョコレートだけ食べて空腹をしのぐという極端な食事をしたことも何度かあって、これは色々とダメだったなと思った次第です。

ウェブで検索してみると「チョコレートのポリフェノール類などは消化器にとってよいものだから胃潰瘍にとって悪いものではない」という検索結果もあるのですが、主治医の話によると、チョコレートに必ず含まれる特定の添加物(失念)が良くないのだそうです。これは後日再度行った近所の病院でも言われたので、過度のチョコレートの摂取が胃潰瘍の要因となるのは専門医の間では支持されている説のようです。

一人暮らしの場合、ホットラインの類を用意しておくことの重要性

以前のブログ記事にも書いたのですが、私には東京に身寄りのある家族や親戚がいませんでした。今回は緊急入院だったので、とにかく入院に必要なものがほとんどない状態で入院をしたため、誰かを頼る必要がありました。これも以前のブログ記事に書いたことですが、TwitterやFacebookなどのソーシャルストリームに状況を流して助けを求めるか結構悩んだのですが、時々刻々と流れる状況の中で直後にどうなるか分からない状況だったので、状況を流すことのリスクよりもメリットを取って、情報を逐次Twitterに「同報通信」することにしました

北海道にいる母に連絡はしたのですが、入院期間が不明なのと、母も仕事があってすぐに動ける状況じゃないだろうという判断をして、母には来ないでも大丈夫だとメールしました。

結果的に、Twitterを見て多くのITエンジニアの方からの心配の声をいただき、そのうち数人からは「必要なものがあったら駆けつけるから言ってほしい」とありがたい返事をいただき、その中から一番病院の近くに住んでいる方を頼って必要な入院用品を買ってきてもらいました。こちらの指定が曖昧だったものの、的確な買い物が非常にありがたかったです。後日、他の方から買ってきてもらう耳栓以外、2週間の入院生活はこれに助けられました。

とにかく2011年から主にプログラマーコミュニティでの活動をさせていただいていますが、今回は本当にその仲間に助けられました。入院期間の14日の間、平均すれば毎日一人はお見舞いに来てくれた計算になるのですが、大家さんと元同僚の企画職の友人を除いて、みんなプログラマーだったのは、コミュニティに助けられているなぁと思わされ、感謝してもしきれない状況でした。

配偶者や家族や親戚が近くにいる人はその人を頼ればよいでしょう。重病でも計画入院で入院期間もハッキリしている場合は、独身でも遠方にいる親を呼ぶ計画もできます。ただ、上述のような緊急入院で入院期間もハッキリしない場合、Twitterに同報通信をして助けを求めるしかその時の私に取れる方法が無かったのは今考えても事実だったと思っています。多くの人に無用な心配をかけてしまうという要素や、入院をしていることを他者に知られることによって考えられる様々なリスクを天秤にかけても、です。

買い物を依頼して最初にお見舞いに来てくれた方も独身の東京暮らしで、私と似たような境遇にある方でした。「困ったときはお互い様ですよね」という話もしましたが、まさに独身者は困ったときに頼れる人を日頃から作っておく事が大事だと痛感しました。私もその人が緊急入院をするようなことがあれば、真っ先に駆けつけられる人になります。

「アパートの大家さんが来てくれるんだったらそっちを頼れば…」というご意見については、大家さんに連絡する手段が通話による電話しかなく、しかも電話が繋がらないことも多く、院内歩行が可能となるまで大部屋での通話が出来なかった事があったので急を要する入院用品の用意に関しては頼れませんでした。企画職の元同僚の友人は信頼できる友人ではあったのですが、仕事の都合で直後にこれなかったことと、冗談が通用しないときに冗談をやらかすことがたびたびあって怖かった(笑)ということもあります。後日お見舞いに来た時の挨拶も「天下一品に行ってラーメン食べましょう。それで回復しますから」でしたから。

退院と費用

晴れて12月24日に退院することができました。11日に静岡に行こうと思っていたら、いつのまにかクリスマスイブになっていたというやつです。最後の病院食がクリスマスケーキだったのが良いオチとなりました。昼食を済ませ、荷物をまとめて退院です。

かかった費用が気になる方もいらっしゃるかと思います。入院時に保証金として10万円を払ったとき、予想では10万円をそこそこ越えると思っていましたが、だいたい予想通りでした。ただ、20万円は越えませんでした。これについては病院や病状によっても異なってくると思うので、一概に相場は言えないでしょう。ちなみにこれは通常の健康保険の「3割負担」の額です。また高額医療費の還付金は計算に入れていません。

何が高かったか明細を見たら、主に絶飲食時の24時間点滴の総量が結構高かったようです。そして胃カメラという診療や施術(止血術)も多くを占めていました。あとは平均的にお金がかかっている感じでした。医療費節約のため、健康でありたいものです。

その後、歩いていけるバス停まで歩いていって、バスで帰宅しました。冷え切った部屋を温めて、コンビニで買ってきた胃に優しそうな食物を食べて過ごすことになりました。

その後、札幌へ行く

12月27日に札幌へ行く予定があったので、それまでに退院できるかが入院中の気がかりでしたが、主治医からは「それまでには退院できるから大丈夫」と言われていました。実際退院できました。

入院中はパリエットとムコスタという薬を飲んでいたのですが、退院後はフェルムという貧血用の薬が増えました。今までは注射されていたものの飲み薬版です。専門用語では徐放性鉄剤と言うらしいです。

12月26日、退院後2日くらいからひどい下痢になりました。「ヤバイ物食べたかな」と食事を見なおしてみたものの、特に悪いものは食べていない。病院食のようなものしか食べていないのです。便の色は前日までの健康的な色とは違い、灰色っぽい色。これはフェルムの色です。もともと腸が弱い私、見事に徐放性鉄剤の副作用にやられたのです。

12月28日の朝、さすがに札幌滞在時にこの状態はきついということで、急遽病院に電話をしました。薬剤師さんにつないでもらい、なんとかならないかと話をしたところ、薬剤師さんと主治医の間で「貧血の症状は収まりつつあるので、フェルムの服用をやめて様子を見てもよい」とのことでした。ただ、徐放性鉄剤の副作用が収まったのは12月30日まで待つ必要がありました。12月28日の勉強会の最中は本当にトイレとの往復を繰り返していました。大変だった。「徐放性」というのは「ジワジワ来る」という意味らしく、まさに副作用がジワジワ来た結果となったわけです。日頃から腸の弱い人は、徐放性鉄剤が処方されたら副作用について事前に相談しておくと良いと思いました。

私はカフェ巡りが趣味でコーヒーが好きなのですが、普段からカフェイン過敏な傾向にあって、コーヒーで眠れなくなったり腹を壊したりすることが多いのです。札幌滞在時、試しに一口カフェオレを飲んでみたら、見事に胃に気持ち悪さが来たので、カフェイン手強いなと思った次第です。夜に試しに日本酒やウィスキーの水割りを飲んでみたときは気持ち悪さを覚えなかったので、私にとってはアルコールよりカフェインのほうが強敵なのかもしれません。なんとも悲しい事実です。私はビールが好きなのですが、さすがに炭酸飲料はまだかなと思って今回は手を出しませんでした。この記事を書いている2013年1月時点では、まだビールは解禁していません。

帰省して快適な療養生活

その後、札幌での用事を済ませて、12月30日に実家のある帯広市(の隣町)に帰ってきました。実家では母が胃にやさしい食事を用意してくれて、またストレスとは無縁の生活を送ることができたので、非常に良い療養生活となりました。徐放性鉄剤の副作用からも解放され、胃も腸も健康で穏やかな年末年始が過ごせました。

その後

年始に東京に戻って風邪を引いたりしましたが、胃潰瘍のほうは良好です。パリエットとムコスタは1ヶ月以上飲み続ける必要があり、薬がなくなれば通院という形になります。1ヶ月半ほど飲み続けたらパリエットが効力の弱い薬に切り替わるという段階を踏むようです。

胃潰瘍、急性とはいえ、なってみて初めてその強烈さを知りました。良く知られた病気なので、普通の町医者で薬をもらって飲むだけで回復という病気じゃないんだということは、今回身をもって勉強させられました。ひどい場合は開腹手術になる場合もあると聞いて、つらかったけど胃カメラでの止血術で済んで良かったと思った次第です。

まだ薬の服用や食事制限は続きますが、ひとまず風邪も治りかけて元気を取り戻しつつあります。胃と相談しながらアルコールも徐々に解禁していこうと思っています。

今回、お見舞いに来てくださった方、ご心配くださった方、本当にありがとうございます。いつか何かの形で恩返し出来ればと願ってやみません。

DebianでPerlのDB_Fileモジュールのインストールに失敗した時の対処法

おがた (@xtetsuji) です。

cpanmでLiBotを入れようとしたらDB_Fileモジュールが入らないとエラーが出たので、~/.cpanm/build.log をみたら「db.hがない」といったエラーが出ていました。

サーバはDebianだったので、UbuntuなどのDebian系OSであれば同じ方法でいけると思いますが、以下の方法でdb.hを配置することができるようです。

$ sudo apt-get install libdb-dev

このapt-getが無事終わったら、cpanm で DB_File モジュールが入ります。

検索したら、他のサイトでは「手作業でtarボールを落としてきて…」とか書かれていて「Debian系ではそこまでする必要はないんじゃ」と思ったので手元で試行錯誤したら上述の方法でうまくいったというメモでした。apt-cache search berkeleydb して出てきたパッケージの中からもっとも有力そうなものを入れたらたまたまうまくいったというだけですが。

よく確認していませんが、perlbrewやplenvではない「システムPerl」を使う場合であれば、Debian の libmldbm-perl パッケージで DB_File モジュールが入るようです。ただ、LiBotのような新しめのモジュールはパッケージとして提供されていないので、ユーザPerl環境を作るか、cpan2deb (dh-make-perl) コマンドを使うなりして自分だけのCPAN配布パッケージのDebianパッケージを作る必要があるでしょう…が、この作業はPerlモジュールの依存関係が深くなればなるほどしんどい…。個人用途で縛りのない環境であれば、ユーザPerl環境を作るほうが楽な時代でしょう。

さて、本題のLingrで遊ぶ作業の続きでもしようかな。

参考:

2014年に目指すべきもの

おがた (@xtetsuji) です。

昨年はどんなブログ記事書いていたのかなと思って見てみたら「2013年に目指すべきもの」という記事を書いていたので、それを真似してみることにしました。新年初ブログ。

2014年は1日から5日まで何もしないで療養すると決めていたので、特にコンピュータ関連で何か主だった作業をしたりはしませんでした。暇だったからVirtualHostを整理したり内々のサイトを作ったりした程度でしょうか。

さて、「2013年に目指すべきもの」に書いた中でどれだけ実現できたんでしょうか。

  • 2012年を越える
  • 自分を象徴する何かを作る
  • 健康に努める
  • お金に執着する
  • 英語を勉強する
  • 芸術を磨く
  • 見聞を広める
  • 好きな人を応援する
  • 環境を変える

ほとんど出来ていない感じがする…。昨年の振り返り記事でも書きましたが、2013年は特に仕事でプログラムをする機会が少なく、自己研鑽が足りなかったという反省もあります。私事ではありますが、4月に手取り収入が相当減ったこともあって、逆に超節約生活に突入して、カネに執着し始めることができたのは皮肉というべきでしょうか。それでも、節約しても技術書を買うお金すらないほどの状況だったので、OSSのITエンジニアとしては金に関しては負の連鎖が続いた一年ではありました。英語も結局勉強できなかった。普通に生活していて貯金が貯まる生活から、節約しても貯金が減る生活へ、2013年のこの流れは相当厳しかった…。

健康に努めることはしましたが、12月に胃潰瘍で入院したというくらいなので、身体が色々と年末に向けて不調だったことは事実なのでしょう。要因を聞かれることが多いのですが、自分でもよく分からない。ストレスという線くらいしか残らないのですが、はたして…。

芸術を磨き、見聞を広め、好きな人を応援することはできたかなと思います。勉強会に行くお金は捻出して、そこでネットでは知りえない見聞を広められた事は良かったです。芸術面に投資できるお金がもう少しあればピアノの一つでも習えたのかもしれませんが、これは2014年に実現したいこととしましょう。

では2014年はこうしたいという列挙をしてみたいと思います。

執筆業に進出する

ブログを多く書くというアウトプットの増加もそうですが、できれば書籍執筆をしてみたいですね。現在だとKindle電子書籍とかを手軽に出せる時代なのでそういう時勢にも乗ってみたいですが、夢はやはり紙の書籍です。

アウトプットのためにはもちろんインプットが重要になってきます。アウトプットとインプットをバランスよく行っていくということも目標です。

ピアノを習う

クラシック音楽好きなので、ピアノかヴァイオリンを習うのが夢だったんですよね。とはいえ、大人になってしまった現在であれば、ヴァイオリンよりも汎用性の高いピアノを習ったほうがいいかなと思ったので、今年はピアノを習いたいです。自習も良いと思ったのですが、勉強のペースメーカーやお金を出して習っている感を出したいということもあるので、ピアノの先生から勉強したいと考えています。

作曲をしたいというのも夢で、学生時代から断続的に作曲をしたり時々楽理の勉強もしていますが、和音とかは楽器がないと分からない部分が多いので、ピアノを習うことを作曲をすることのひとつの手段として捉えています。

ピアノを習うよりも、ピアノを買うこととピアノの置き場を確保することのほうが難しそうです。そういうのも含めて打開していきたいと思います。

勉強会などのイベントを盛り上げる

これは2013年も行なってきたことですが、既存の勉強会を盛り上げていきたいとおもいます。Perl入学式ではサポーターをやらせてもらったりしていますが、その活動も2014年も精力的に継続していきたいとです。

その他の勉強会、PerlBeginnersHokkaido.pmではUstream配信を担当させていただきましたが、結構好評でした。iPhone 4sという大した機材ではないものの、配信するという目的が達成されて、そして勉強会に出席していない人の意見も来たりと、なかなか良い体験ができました。今年はさらにUstream配信の知見を深めて、より良い勉強会の盛り上げをやっていきたいと思います。

また、自分も主宰や主宰のひとりとして自主的に勉強会を主催して、業界を盛り上げていくということもやっていきたいと考えています。

どうしても業種的にPerlのイベントに偏ることになるのですが、今年はもっと他の勉強会にも積極的に参加して良い意味で関与していければいいなと思っています。

軸足をOSSのITエンジニアに置きつつも、視野が広いバランス良い勉強をする

私はOSSのITエンジニアだと自分で思っているのですが、昨年はそこの勉強も足りなかった。前代未聞なほど金がなくて書籍が買えなかったとか言い訳にならないほど勉強していなかったので、その点今年は技術書を定期的に読んでいくということを目標にしたいです。そのために技術書を買ったり調達したりするという前目標があります。天から金が降ってくることはないので、これも自分の努力でなんとかします。

ただ、ITエンジニアの勉強だけでは足りないなとは思っていて、年齢的にももっと別の勉強をしないといけないとも思っています。特に経営者にならないまでも、経営側を監視したり、他社の経営の良し悪しを評価できるだけの経営の知識は欲しいと考えています。祖父も経営の勉強をしてほしいということを年始に言っていましたので。そんなわけで、仕事で隣接する業種でこんな勉強をしたいというものの列挙をしてみました。

  • インフラ系
  • ネイティブアプリ系(Android/iOS)
  • 数学、物理学
  • 経営学、そして経済学
  • 簿記などの経理財務系の仕事
  • プランニング、特に海外のスタートアップに学ぶようなもの
  • 仕事術、特に程良く枯れた手法
  • 人にものを伝える技術、トークやプレゼンテーションの技術

その他、小説であるとかノンフィクションであるとか、読書を継続的に行って、そこから得られる幅広い知識を吸収していきたいと思います。

お金を稼いで好循環を回す

2013年はとにかく金が無くて、書籍が買えなかったり、デジタルガジェットが買えず先端を追いかけるべきITエンジニアとして致命的な一年だったりしました。

今年は「お金に執着する」というよりも、具体的にお金を稼いであらゆる面での好循環を回していきたいと思っています。もちろん、副業規定に引っかかったりしないとか、汚い金を手にしないとか、脱法的な事はしないとか、最低限のことは守って頑張っていきたいと思います。

仕事とコミュニティ活動の相乗効果

2013年は仕事とコミュニティ活動が互いに相乗効果を生めなかった年でした。というか例年そうだった気もする。昨年の目標の中に「環境を変える」というものがありましたが、環境を変えるということが目標・目的であるというよりも、仕事とコミュニティ活動の相乗効果をもっと生んでいきたいし、そのために環境を変えていく努力をしていこうと思っています。環境を変えるというのはいわば手段に過ぎないというわけです。

昨年は環境を変えるべく色々会社に提言をしていったりしましたが、結局あまり好まれなかった一年でした。そういう寂しい結果だけは残さないように、仕事も充実、そしてコミュニティ活動も充実、さらには仕事とコミュニティ活動が相乗効果を発揮して両輪がうまく回って両方うまくいくという一年にしたいです。

コミュニティ活動はエンジニア活動だけに限りません。周りの人が意外だと思うようなそんな新境地も開拓していきたいと考えています。

とにかく健康

2013年は年末に入院してしまったりしました。なんだかんだ、身体に負担がかかっていたのかもしれません。食事や運動を取り入れて健康を目指したいと思います。

生活力向上、炊事・洗濯・片付け力の向上

かれこれ数年部屋が散らかっています。自炊もしたいと思いつつ、学生時代に自分のマズイ飯を食い続けたトラウマでやめてしまいました。洗濯は室外洗濯機置場という最悪の環境の中、洗濯機の掃除が毎回必要であったり洗濯物を干す場所がないという劣悪な状態にあります。そんなことを改善しつつ、生活力を向上していきたいです。

まずは捨ててしまった調理器具を一から揃え直して、カンタンな自炊ができるようにしたいです。できれば料理教室に通いたい。これも金が必要な事案です。頑張りたいです。

洗濯は、大家さんの許可を取って室内に無理やり洗濯機を入れようと考えています。かなり大掛かりな「リフォーム」になりそうですが、引っ越しするよりもコストは低そうです。とはいえ引っ越しできる潤沢な金があれば引っ越したい…。

そして部屋の片付け。断捨離がブームですが、金以前に置き場所という問題で新たな書籍やデジタルガジェットを増やせない状況を打開していきたいです。とにかく片付け以前に古いものの処分が課題です。猛烈にやっていきたいと思います。今の状況だと難易度の高い「倉庫番」状態で、何も動かせない最悪の状況のままです。頑張りたいです。

海外に目を向けて国際的な感性を養う

昨年は「英語を…」と言っていましたが、英語英語言っている間は英語なんてしゃべれやしないことは痛感しました。とにかく海外の文化に飛び込んでいくしか無い。その過程で必然的に英語などを勉強していくという流れにしたいです。そのために、国際的な人達のコミュニティに飛び込んでみるとか、海外旅行に行くとか、英語などの海外の言葉を使わざるを得ない状況に自分を追い込んで、そこで度胸をつけていきたいという作戦です。

趣味を楽しみ、好きな人を応援する

これも2013年同様です。好きな人を応援することは大事だと思います。これはショービズに限らないことだと思います。エンジニアコミュニティでも自分がこの人だと思った良い活動をしている人には積極的に応援・支援をしていく所存です。

その他

今年も色々な事があるでしょう。今年はこれを何度も読み返して、自己実現へ踏み出していきたいと考えています。年齢的にも求められる行動は変わってきています。そういうことにも柔軟に対応していけるようにしたいです。

また何か大きなものを思いついたら書き足していきます。2014年もご期待ください。よろしくお願いします。