対象となる人物を特定しないネガティブな話は疑心暗鬼を生ずるだけ

対象となる人物を特定しないネガティブな話は疑心暗鬼を生ずるだけ#interest_aeおがた (@xtetsuji) です。

完全にタイトルの通りなのですが、他のブログ記事とかから参照できるし、短くても書いておこうかなと思いました。

多くの人が暗黙に考えている事への反駁でもあるので賛否両論は絶対にあると思いますが、言いたいことは本当にタイトルにあることだけです。

対象となる人物を特定しないネガティブな話とは何か

しないに越したことはないのですが、どこかではしないといけないネガティブな話。その行動を反面教師的に捉えたり、諌めて改善を提案したり、全体の流れ的にはポジティブ路線ではあるものの、その中でネガティブな話が避けられない場合だってあります。

多くの文章では、その部分の行動主体である人物についての情報は伏せるように書かれると思います。悪口でや陰口だと取られる可能性もあるので、良くないと考えることは自然なことでしょう。とはいえ、そう考えるんであればそもそも書かない関わらないほうが厄介事に巻き込まれなくて良いのでは、というのがこの主張の結論だったりします。

興味深い極端な例として、たとえば私がこんなことを公の場で言ったとしましょう。

  • 「今までの人生の中で私が出会った人は、一人を除いてみんないい人ばかりだった」

たとえば私の知り合い100人にこの文章を読んでもらって「自分はその一人に入っていないだろうか」と不安になる人を集めたら、きっとそこそこの数になると思います。私が人生の中で出会った人の数は有に千人は越えるはずで、確率的に相当低いにもかかわらずです。そんな私だって、知人がこんなことを言っているのを私が見聞きした場合、不安になることが往々にしてあると思う。それが良いか悪いかは別として、最悪の事態をいつも想定してしまう思考癖の人はそこそこの数いるというわけです。

まさにこれが「対象となる人物を特定しないネガティブな話」の怖いところです。対象となる人物を特定せず穏便に済ませ、その集合の大きさを限定したつもりになっていても、意図しないことに、少なくない無関係な人達に無用な疑心暗鬼を生じさせてしまったのです。その人達は「私」に対して猜疑心を持ち、「私」が想定もしていなかった「私が出会った人」に対して怒りや恐怖といった感情を生じさせてしまったのです。

面白いことに、往々にしてこういう話は「本当の一人」には届きません。

文章執筆の鉄則はどんなときも自分が読み手になって考えること

もしこういう「対象となる人物を特定しないネガティブな話」をすることを回避できない場合には、自分が書いた文章を客観的に読みこんで人々に疑心暗鬼を生ずることがないか、よくよく検査すべきです。

多くの人に疑心暗鬼を生ずるくらいなら実名を出したほうがマシな場合もある

最近の私の考えは、一人に気を使うために100人規模に疑心暗鬼を生ずるくらいなら最初からその一人の名前を書いてしまったほうがよくない?というもの。

これには誰もが真っ先に感じる「悪口を言っているようになる」という点があるので避けられるわけですが、真に文章自体が「罪を憎んで人を憎まず」といった方針が貫かれていれば、そもそも人を糾弾する文章にはならないでしょう。あとは名誉毀損だったりプライバシー侵害になっていないことも確認しないといけませんが、これらも上述の鉄則である「自分が読み手になって考える」ことで回避されます。こういう努力は簡単ではありませんが、多くの人に疑心暗鬼を生ずる可能性を残すくらいなら惜しむべき労ではないはずです。

ざっくりと特定できればいいだけで、たいていは苗字だけで対象となる人物を特定しておけば、他の全く無関係な人への疑心暗鬼を生ずる問題はほとんど無くなるはずです。むしろ姓名書いて特定し過ぎると、ある種の逃げ場がなくなってしまいそう。

まぁ、日本の頻出苗字である「佐藤」「鈴木」「高橋」「斉藤」あたりは、出しても人物の特定に役立たないばかりか、よりその頻出苗字を持つ人へのメッセージ性が強くなるのでやらないほうがいいですし、日本でほとんどいない珍しい苗字だと逆に完全に特定されてしまうわけで、それもそれでやらないほうがいいと思います。

時々ある「実名出して大丈夫なんですか?」という質問

そんな感じで最近の私は、実名を書くプライバシーなどの問題もなく、書いたほうが無関係な読み手への疑心暗鬼を生ずる可能性を排除できる場合は、実名を書くようにしています。

私は反面教師となる物事も学ぶものが多いという方針を取っています。ただ、時として反面教師は行為者である人にフォーカスがあたります。

本来の反面教師ということは「その振る舞いが良くないものであることを指摘した上で、そういうふうにしないようにしましょう」ということですね。あとは、今の人物が悪いのではなくその当時の人物の振る舞いが悪かったという、前述のような「罪を憎んで人を憎まず」の精神を持って論じることは心がけなくてはなりません。

まぁ、事実の記述にすぎないのか、私の恨みがこもっているのか、興味深い観察対象としてなのか…。状況により様々ですが、よほどきわどい事(違法行為の告発とか)でない限り、名前を出してしまったほうがある側面の余計な面倒事を回避できる私の考えです。

というか、訴訟待ったなしとか会った途端に殴りかかりそうなレベルの人は、さすがに色々と公開情報で書けないですね…。書かれているうちはまだ大丈夫だと思ってもらって良いです。

ネット上での類義語

ネット上でも、このような「対象となる人物を特定しないネガティブな話は疑心暗鬼を生ずる」ということを意味した言葉があります。たとえば「クリリンのことか」という言葉。本来の場面の意味合いとは違いますが、文字ベースのネット上のコミュニケーションではこういう行き違いが多いことがうかがえます。

インターネットによるコミュニケーションをはじめたばかりの私の失敗

最後にこの問題に関しての私の失敗例の中から、一番古いものを一つ挙げて終わりにしたいと思います。暇があれば流し読みしてくださると嬉しいです。

私が初めてインターネットに触れたのは大学に入学した20世紀の終盤でした。それまでは携帯電話もPHSも比較的金を持った人の持ち物で、高校生が持つものではなかったですし、私は結構なアナログ人間でした。

当時のネット上のコミュニケーションは、主に「掲示板」という文字ベースの投稿システムによるものでした。広告収入で収益をあげている会社が無料の掲示板システムを提供し、各ユーザは種多様なテーマの掲示板を作っていました。そんな中には、自分がいた大学の数学科の掲示板もあって、時折のぞいたりしていました。

大学入学当時の私の意見表明は、主に自分のウェブサイトで行っていました。

特にインターネットと出会った最初のほうで取り上げたテーマに、数学科の留年生(留学生ではなくて進級できなかった人のほうです)の行動の問題点といったものがありました。

数学科には講義とともに「演習」というコマがセットでありました。内容は、講義の知識を元に、配られた問題の中で解けそうなものを解いて、先着順で黒板の前で解いて先生に見せるというものでした。必修の講義であれば演習も所定の活動実績が必要で、それは半年を通して解いた問題数でした。しかし、この演習に課せられた問題数は、問題の難易度は考慮していませんでした。

大学1年として入学した私達は、最初の演習の時間ですごい光景を目の当たりにします。昨年度大学1年を留年した先輩方が、問題を受け取ったとたんに誰でもわかるような最初の問題を解くために黒板に全力ダッシュしたのです。

当時でこそ熱い私でしたので、この醜い行動は非常に腹立たしく思えました。新入生をおしのけていくことは置いといても、先輩として数学の専攻として恥ずかしくないのかと。そのことを特定個人の名前を言わずに表明し、留年した先輩方に苦言を呈したのでした。

これは特定個人名を挙げずとも誰が行動主体であるかはどの立場の人でも明らかだと思いました。しかし、これも関係ない人の疑心暗鬼を生んでしまうのです。

数学科の一つ上の先輩に関さんという人がいました(下の名前は忘れた)。彼は大学1年次に留年したらしいのですが、それは数学の成績ではなく違う教養系の必修によるものだったようです。彼は数学の成績は非常に良くて、いわゆる不器用な秀才タイプでした。そんな関さんは私の表明を読んで、自分が指摘されていると勘違いし、私に疑心暗鬼を生じてしまうことになるのでした。

関さんの演習スタイルは、ある程度の段階で残った問題を片っ端から消費していくスタイルでした。これはこれで一部の現役大学1年生から評判は良くなかったのですが、私自身は特に問題視していませんでした。関さん自身も単なるスコアアタック的チャレンジだったのでしょうし、ノルマを消化していない学生に対して演習問題が足りなくなれば先生が補充してくれるからです。私自身も、解けるか分からないうちに当日の一番最後の難しい問題にチャレンジして(これは演習に苦しんでいる同級生に配慮した結果)、無駄に黒板スペースを消費するお騒がせな人でした(しかも正解かどうか確証を持たないから迷惑な学生でした)。先生に「早く採点してください。スペースあけたいので」とか言う感じ。

最後のほうは、ほとんどの学生は演習ノルマをクリアして演習にはやってこず、私を含めたごく一部の数学好き(数学科は数学が好きじゃないのかって?)だけが集まって、数学の欲求追求のためだけにスコアアタックをしている状態、それが演習でした。

本来であれば優秀な関さんとは数学を語りたかったにも関わらず、上述のように疑心暗鬼を生じてしまったがために、結果的に在学中は決して関係が良いとはいえませんでした。変に対象に配慮して個人を特定しない指摘をしてしまったがゆえに親交を持ちたかった人と持てなかったという、もったいない出来事でした。

むすび

そんな感じで、実はつい数年前まで同じような問題を定期的に繰り返して、多くの人に疑心暗鬼を生じさせてしまっていました。改めてそれらを反省して改善しようと考えた結果、上記のような考えに至ることになったのです。

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