数学が何の役に経つのかという質問と、それについて思うこと

数学が何の役に経つのかという質問と、それについて思うこと#interest_aeおがた (@xtetsuji) です。

私が大学時代に数学を学んでいたということもあり、社会人になってからたびたび「数学は何の役に立つんですか」という質問を受けます。

この質問は定期的に聞くのですが、いつもどう回答すればいいのか悩みます。私は長らく「役に立つものは素晴らしい、役に立たないものは無駄なもの」という質問者の純粋な根底思想から発せられた質問なんだろうと考えていたのですが、ここ数年はどうも違っていそうだ、もっと別の真意がありそうだと考えるようになりました。

今回はそんな随筆です。

功利主義的な考え

たびたび聞かれる「数学は何の役に立つんですか」という質問。世間的にもお馴染みな質問です。

しかも、非常に多くの学問がある中で、やり玉にあげられるのはいつも数学ばかり。当初は、数学が社会に偏在する多くのシステムの根底に組み込まれているものの、表層を見ているだけでは数学が何の役に立っているように感じられない純粋な質問だと思っていました。しかし、似たような立場である英語などの基礎教科ではほとんど聞かれない質問です。

「役に立つか」という質問の根底には功利主義的な考えが見え隠れします。

功利主義と言えば、高校の倫理学で習う専門用語としても知られていますが、一般的には「功利・効用・役に立つことを生活の究極水準とする考え」のことを指すことが多いです。ここでも学問的な専門用語ではない、後者のような態度を表すこととします。

各種学説がありますが、功利主義的考えが明確になったのは歴史的には産業革命以降だと言われます。

もちろん産業革命以降、数学は各種科学分野と連携することで産業の発展に多大な貢献をしてきました。そして21世紀になってからは、コンピュータの大衆化によって今まで以上に多くの職種で数学や論理的思考が求められています。

多くの人が大人になり、「数学の入口」ともいえるコンピュータを使って仕事をするようになっても、定期的に「数学は何の役に立つんですか?」という質問が発せられているのです。コンピュータが文房具的にまで操作が平易化され数学との接点が見えなくなったとしても、私には若干の違和感がありました。少なくない社会人は Excel を使うことになり関数を使いグラフを描くのではと。

もしかしたら、私がまだ社会人ではない20世紀に比べると、この手の質問は格段に減ったのかもしれません。ただ、コンピュータが普遍的に就労環境に存在することとなった現在でも、なおこの手の質問がされる理由は非常に興味深く、手持ち無沙汰になるとよく熟考していました。

多くの仮説が考えられますが、一つの仮説として「役に立つ」という単語が「広く一般社会の役に立つ」のではなく「私の役に立つ」を指していると考えるとしっくりきます。

「役に立つか」という質問は「私の役に立つか」

数学は物理学などの科学分野と密接につながっています。私達が生きている現代科学文明は、それこそ物理学無くては何もできません。今では誰もが使っているスマートフォンですら物理学、いや数学なしには作れません。

そういう貢献を「GPSは三角測量と相対性理論で…」などと説明するのですが、かの質問を発した人にはあまり響かないことが多い(なるべく平易に説明しているつもりなのですが…)。もちろん響く人もいます。ただ、思ったほど響かないし、そんなことは私の生活に直接は関係ないといった態度を(露骨に、またはわかりやすく暗に)取る人もいます。

ここまでの経験を何度も思い返して考えていると、「役に立つか」という質問は「私の役に立つか」という質問なのかとも思えてきます。ここで重要なのは、GPSが三角測量と相対性理論の技術を応用しているからカーナビやスマートフォンで位置情報を知ることができる…という間接的な役に立つことではないということです。

実際に数学を嗜んでいる人は、数学的思考が自分の生活や仕事で役に立つ経験を実感していることが多いのですが、そもそもこういう質問を発する人に数学を嗜んでいる人はほぼいません。それどころか数学に対するある種の懐疑的・否定的な考えすら見え隠れします。

今現在数学を嗜んでいないということは、多くが学生時代から数学が苦手だったことは想像に難くなく、数学の成績が芳しくなかったことである種の不利益を被った人も当然ながらいるでしょう。

国語で学ぶ反語という表現方法。「……なのか?」という疑問文で「……ではない」という否定文の意味を含ませるというもの。また「すっぱい葡萄」の寓話で知られる、倫理学や心理学で学ぶ防衛機制の合理化。これらと「私の役に立つか」仮説を組み合わせて考えると「数学は何の役に立つんですか?」という質問(疑問文)は「数学なんて役に立つはずがない」という表明(肯定文)にも読めてきます。

反語としての「役に立つか」は「私の役には立たなかった」という表明

前述の「私の役に立つ」仮説を他の学問の知識で補強していくと、「役に立つか」という疑問文は「役に立つはずがない」「私の役には立たなかった」とも読めてきました。この仮説を推すのであれば、それは単に「私は役に立たせることができる力がなかった」という帰結もできるのですが、それはいささか酷でしょう。私だって英語を役に立たせることができる力がなかったのですから。

前述の通り、この質問を発する人は数学が苦手だった人が多く、数学の成績が芳しくなかった不利益を被った人もそれなりにいるはずです。こういう前提に立って考えると、数学が何の役に立つかを知りたい純粋な質問ではなく、当初から「私は数学というものの存在で直接的に不利益を被った」ということへの皮肉や呪詛を唱えているだけではないかという、一種厳しい見方をせざるを得ない質問者も少数ながらいた、と考えるようになりました。

こういう人にとって、数学の成績が芳しくなくて志望校に進学できなかった(大げさに言えば人生を狂わされた)ことに比べたら、カーナビやスマートフォンで現在位置を知ることができるという話の一つや二つでは心動かされることもないでしょう。もともと合理化で発せられている呪詛を含んだ質問であれば、それを説得するには数学を勉強することで数学の有用性を身をもって分かってもらうしかないわけです。

これって結局は中学高校で行われる数学教育に問題があるだけなのでは…とも感じてしまいます。自分の熟考の末に導き出された仮説の一つは、誰もが考えるわかりやすい問題(中等数学教育の未熟さ)に帰着してしまったのかもしれません。

コンピュータ時代とも言える21世紀ですが、20世紀末のバブル経済崩壊の影を色濃く残しています。情報産業が躍進しても貧富の差が拡大するだけで、ブラック企業問題や低賃金労働者問題など新たな問題が盛んに叫ばれており、総中流時代の崩壊などとも揶揄されているくらいです。その中でも若干ながら生涯年収が高いと言われるいわゆる「理系職」の象徴となっている数学への呪詛を「数学は何の役に立つんですか」という言葉に込めて発しているという考えは、個人的には一つの仮説としてしっくり来る結論でした。

もちろん純粋な未知なる数学への興味関心の発露として質問する人もいると感じています。ただ、他の学問をはるかに凌駕するほどに氾濫する「数学は何の役に立つんですか」という質問の裏には、そんな意図が隠れている場合も少なからずあると考えてしまいます。

中等数学と呼ばれる中学高校で行われる数学教育(高等数学は大学で学ぶ数学の総称です)の問題点はまた別の機会に論じることとして、次に「役に立つ」という指標について考察してみることにします。

役に立つという評価は評価者による主観的要素が大きい

冒頭で、役に立つということが功利主義的考えに通じており、その功利主義的考えが明確になったのは歴史的には産業革命以降だと書きました。学説の一つではありますが、私としてはしっくりくる話の一つです。

このことからも、役に立つという評価は時代背景によっても大きく変わるものとわかります。

ある時代において役に立つ・立たないといったことが特に取り沙汰されることのなかったものが、別の時代においては他の役に立つとされたものとの対比で役に立たないとされ、また別の時代には文明を進化させるほどの貢献を果たし万人から役に立つという評価を受ける場合もあります。

時代背景といった文脈だけでなく、評価者が置かれた現在の立場といったものにも役に立つ・立たないといった評価軸は変わることは想像に難くないでしょう。「役に立つ」という指標は普遍的ではないと考えるほうが自然で、かつそれが役に立つか否かは評価者次第であるとも言えるのではないでしょうか。

最近の私の「数学は何の役に立つんですか」への回答

以前の私は、「数学は何の役に立つんですか?」といった質問には、その質問者の背景や知識量を類推した上で丁寧に具体例を説明していました。

ただ前述までの仮説を踏まえて、明らかに反語的意味合いを含んだ質問には「数学は何の役にも立たない」といった身も蓋もない嘘を言って説明を省略することもたびたびするようになりました。評価者が最初から数学を否定しているのであれば、説明ではなく綿密な説得をしなければそもそも分かってもらえないのです。そのコストを短時間の質疑応答で捻出するのは正直難しい。かえって「数学は難しい」といった誤解を植え付けることにもなりかねません。

もちろん、冒頭の「私の役に立つ」仮説に明らかに含まれない質問も多くあります。そういうときには時間の許す限り説明します。そういう説明が実を結んで数学への興味を持ってくれることが一番嬉しくもあります。

ただ、質問者が反語的意味合いを含んだ質問をしている場合、単に否定を認めて欲しいだけ。ネガキャンへの加担であるとか負の感情が伝搬していく問題は残りますが、木の上のぶどうに対して一緒に「あれ酸っぱいよねきっと」と言ってあげることも時には優しさなのかもしれません。

ただ、数学の出来不出来がこの先の人生に関わってくる小学生から高校生までの誤解は全力で取り去るようにしていますが、成績が芳しくない以外の先入観がない学生の方が冒頭のGPSといった面白い「生活の中の数学」を教えると興味津々に聞いてくれることが多いように感じます。学生の「数学は何の役に立つんですか?」は「数学の成績を上げたい私に数学の興味を持たせて欲しい」という純粋な懇願なのかもしれません。今は分からなくても、これから頑張れば将来の夢につながるかもしれないという希望が持てるからとも言えるでしょう。それは大人も見習いたい考えです。そう、何をするにも遅すぎることはないのです。

これを考慮すれば、まずは未成年の学生達を育てる親世代である大人の意識改革だとは思うのですが、大人の考えを変えることは思った以上に難しいと感じます(だからこそ反語的質問が来るわけですが)。それであれば「あなたが数学への興味が持てなくても数学の出来不出来は子供の将来の選択肢に大きく関わる。子供から数学の興味について質問を受けたら私のところに連れて来て欲しい」と付け加えるべきかもしれません。実際、そういう話の運び方をすることはあります。

もちろん、現代科学文明に多大な貢献をしている数学を不当に貶めることはあってはなりません。ただ、私をはじめとした数学の魅力を伝えたい全ての人がすべきことは、そもそも数学に否定的な個人の説得に資源を投じるよりも、もっと多くの人へ同時に数学を魅力を届けることができるような教材を作ったり解説記事を書いたりすることではないでしょうか。

この質問に対して、まだまだ私の考察は尽きることは無さそうです。

もう一つの意地悪な質問「あなたは数学にとって何の役に立っているのですか?」への回答

「数学は何の役に立つんですか?」で積極的にネットを検索することはあまりないのですが、以前「あなたは数学にとって何の役に立っているのですか?」という、数学を学んで数学の魅力を伝える人への意地悪というか面白い質問を見つけました

確かに、冒頭の仮説にあるような数学に対するある種の懐疑的な考えすら持つ質問者が、熱心に数学の魅力を説く人に投げかけそうな意地悪な質問です。数学の魅力を解く人も、言葉足らずであったり上から目線であったり、社会性が無い人が一定数いることは数学科へ進学した私は重々理解していますし、こういう質問にも一定の理解は感じます。

私も数学科へ進学して修士課程まで合計6年間数学を学んだのですが、この少々意地悪な質問を見てしばらく「私は数学にとって何の役に立っているか」を考えました。

数学や科学の歴史を変えるような発見ができる人は、大学等の研究機関に所属している研究者でもほんの一握りです。まして私は何もやっていないようなもの。趣味数学家や(みせかけだけの)ファッション数学屋など、功利主義的視点からも重要な未解決問題の解決といった視点からも外れて数学を嗜む人が大部分とも言えるわけで、この意地悪な質問に対する納得できる回答はあるのでしょうか。

もちろん、この質問に対しては功利主義的考え自体を否定することも一つの回答ですし、その方が健全であるとも感じます。例えば「役に立たない事も素晴らしい」「次の世紀には役に立つかもしれない」「他者に不利益を与えないものをすることは自由」などなど。ただ、これでは質問者に言い負かされたような感じで少々面白くありません。

「あなたは数学にとって何の役に立っているのですか?」という質問に真っ向から回答するとすれば、私の一つの回答として「数学をする私は数学の天才を下支えしてます」と答えます

私の考える「天才の下支え理論」

私が「天才の下支え理論」と勝手に呼んでいる説明があります。ずいぶん以前にどこかのウェブサイトか書籍で読んだ気がするのですが、どこで読んだかはすっかり忘れてしまいました。もしかしたら私の記憶の捏造が入っていて、私の考えが存分に入っているかもしれません。

その「天才の下支え理論」とは以下のようなものです。

  • 1人の超天才を100人の天才が支えている
  • 1人の天才を100人の秀才が支えている
  • 1人の秀才を100人の凡才が支えている

100人というのは特に根拠のある数字ではなく「多くの人」「ある一定数」の比喩と取ってもらっても問題無いです。言い換えるなら「特定の知識レベルの人はある一定数のひとつ下の知識レベルの人達が支えている」ともいえます。「支えている」という意味合いについては後述。

上の「天才の下支え理論」で行けば、その学問の学習者の100万人に1人超天才がいる計算になります。人類がまだ解決できていない未解決問題は100万人に1人の超天才が陣頭指揮を取って(他の天才たちと一緒に)攻略をしているものの、その超天才を生んだ土壌は100万人規模の学習者の下地があったからこそなのです。

もちろん何も学習者の集まりがない状態から100人の凡才を育てたら天才が1人生まれたという事例はあるかもしれませんが、確率的には稀でしょう。天才の素質がある学習者はいるかもしれませんが、その人を天才に引き上げるためには凡人より一段階知識レベルの高い秀才の集まりといったものが不可欠です。なぜならば、教育基盤もそうですが、その才能に価値を見出す人が一人もいなければ正しく評価されることも後世に伝えられることもないからです。さらにその人が天才となったとしても、天才が凡人99人と一緒になることで出来ることは限られます。

数学での格好の例はインドの数学者ラマヌジャンでしょう。故郷のインドでは、上記の100人の凡才の中から1人の超天才の例がそのまま当てはまってしまいそうな境遇でした。その後、イギリスの天才数学者ハーディによってその才能が取り立てられて数学界で知られることになりますが、彼の才能を正しく評価できなければ才能が取り立てられることすらなかったのです。ヨーロッパの数学者に発見されずその生涯を閉じたとしたら、彼の発見した数学の新事実を書いた文献はインドの人達に理解すらされず普通に捨てられてしまっても不思議ではありません。なぜならばそれを正しく理解や評価できる人がそこにはいないからです。

ラマヌジャンレベルの天才は奇跡レベルとも思えますが、それでも人間の長い文明の歴史の中で、その時代の最高の知識レベルの何段階も上に至った人が誰にも理解されず、後世に存在や功績が伝えられなかったという例は普通にあったと私は想像します。

このような考察を積み重ねると、天才を生むには秀才が100人必要、秀才を生むには凡才が100人必要という話も実感が湧くのではないでしょうか。生むだけなら非常に低い確率でなされるものの、育てる、維持する、後世に伝えるとなると、ひとつ下の知識レベルに多くの人がいる必要があると思いませんか?

確かに私は秀才を支える100人の凡人の一人でしかないのかもしれません。ただそれでも十分だと考えますし、さらに勉強を積み重ねることで秀才になり今度は天才を支える100人の秀才の一人になることは誇らしいことですら思えます。教育者となって凡才100人を世に送りだして秀才を下支えすることにも大きな意義を感じます

「数学は何の役に立つんですか?」への回答から始まった考察。一つの仮説ではありますが、結局は「役に立つ」は「私にとって役に立つ」ということであり、この質問を発した時点で質問者自身が試されているとも言えるでしょう。

結局はどんな知識も役に立たせることが出来るかどうかは本人次第なのです。私は一人でも多くの人に数学が役に立つと実感してもらい、欲を言えば実践で役立たせることが出来るようになってもらうことで、数学界全体ひいては科学界全体の「天才の下支え理論」に少しでも貢献できればと、心を新たに活動していきたいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です